尚泰王■琉球王国・第二尚氏王統・18代目国王・尚育王の二男。
■琉球王国・第二尚氏王統・19代目国王であり最後の国王となった。
■琉球国王。
■居城は首里城。
■在位:1848年~1872年。→琉球藩王。
■童名は思次良金。
■1848年、4歳で即位。
■1853年、ペリー来航。
■1854年、琉米修好条約締結。
■1855年、琉仏修好条約締結。
■1859年、琉蘭修好条約締結。
■1872年、国王退位後、引き続き日本の華族(侯爵)として琉球藩王となる。
■1879年、琉球処分により琉球藩に沖縄県が設置され、尚泰王は藩王としての地位を失い、琉球藩は消滅した。
■首里城退去も余儀なくされ、華族として東京に居を移すこととなった。
■1901年、尚泰は59歳でその生涯を終えた。
■墓陵は首里玉陵。
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尚金福王■琉球国中山王。
■居城は首里城。
■在位:1449年~1453年。
■在位期間:4年。
■神号は君志(きみし)。
■尚巴志王の子であり、尚忠王の弟。前王・尚思達王の叔父にあたる。
■1449年、甥である尚思達王の死去により第一尚氏王統・5代目王に即位。
■「長虹堤(ちょうこうてい)」の建造…1451年、明からの冊封使を迎え入れるため、浮島と呼ばれる小港・那覇を貿易港として整備し、那覇市松山付近にあった伊辺嘉麻(いべがま)から崇元寺付近(那覇市泊)までの間に「長虹堤(ちょうこうてい)」と呼ばれる約1kmの堤防と橋からなる堤道を建設させ首里との道を繋いだ。
■当時の安里川、国場川流域は点在する小島の集まりであったが長虹堤の建造により、港・那覇の人口が増加するとともに埋め立てが進んだ。特に明治以降の埋め立てにより現在の形となった。
■尚金福王の崩御に伴い、息子の志魯と弟の布里が王位を争い「志魯・布里の乱」を引き起こした。
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