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琉球・沖縄の歴史上の偉人や事柄辞典。 title=

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41件の該当データがありました。

利勇 (りゆう)

主家を滅ぼし王位に就くが舜天に倒された男。
[人物] [武将]
 生没年:-1187
■琉球最初の王統ともされる「天孫氏王統」の25代王の家臣。
■謀反を起こし天孫氏王統を滅ぼし自ら王位についた。
■のちに浦添按司・尊敦(後の舜天)に滅ぼされる。
■「中山世鑑」(1655年)、「中山世譜」(1701年)、「球陽」などに登場する。

羽地朝秀 (はねじちょうしゅう)

「琉球の五偉人」の一人。
[人物] [政治家] [按司]
 生没年:1617-1676
■王族の羽地御殿5世・朝泰の長男。
■唐名:呉象賢。名乗:重家。→呉象賢・羽地按司重家。
■琉球王国最初の歴史書「中山世鑑」の編纂を行なった。
■羽地間切の按司地頭を継いだが、1666~1673年、尚質王の摂政となり、数々の改革を行ない王国の経済を立て直した。
■那覇市首里平良町に「羽地朝秀の墓」がある。

勝連城跡 (かつれんじょうせき)

茂知附築城、阿麻和利の居城。
[史跡] [世界遺産]
■第一尚氏王統・6代目王・尚泰久王の時代、クーデターを企て1458年に没した阿麻和利の居城として有名。
■勝連城跡は阿麻和利の前城主・茂知附按司により築城された。
■1972年5月15日、沖縄の本土復帰と同時に国の史跡に指定された。
■2000年11月に首里城跡などとともに
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」
としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
■登録されたグスクの中では最も築城年代が古いグスクとされている。
【連絡先】
〒904-2311 沖縄県うるま市勝連南風原3908
TEL:098-978-2227

座喜味城跡 (ざきみじょうせき)

護佐丸が築城し18年間居城したグスク。
[史跡] [世界遺産]
■1416年-1422年、読谷山按司護佐丸が築城した。
■1972年5月15日、沖縄の本土復帰と同時に国の史跡に指定された。
■2000年11月に首里城跡などとともに
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」
としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
【連絡先】
【連絡先】
〒904-0301 沖縄県中頭郡読谷村座喜味708?6
TEL:098-958-3141

毛氏豊見城殿内 (もううじ とみぐすくどぅんち)

護佐丸を祖とする士族家系。
[家系] [門中]
五大姓(五大名門)の一つ。
■中城按司護佐丸盛春を元祖とする琉球王国の士族(首里士族)。
■毛氏豊見城の大宗家(本家)。
■代々豊見城間切(豊見城市)の総地頭を務めた琉球王国の大名。
■名乗頭は「盛」。
■歴代当主は「豊見城親方」の呼び名で知られる。

向氏嘉味田殿内 (しょううじかみだどぅんち)

尚真王の四男を祖とする琉球士族の家系。
[家系] [門中]
五大姓(五大名門)の一つ。
■第二尚氏の分家。
■第二尚氏王統・3代目王・尚真王の四男尚龍徳・越来王子朝福を元祖とする琉球士族。
■代々越来間切(沖縄市越来)、喜屋武間切(糸満市)などの按司地頭職を務める琉球王国の王族・大名家であったが、王国時代最後の当主・向椿の代で御殿から殿内に家格落ちし士族となった。

向氏具志川御殿 (しょううじぐしかわうどぅん)

尚真王の三男が祖の王族家系。
[家系] [門中]
五大姓(五大名門)の一つ。
■第二尚氏の分家。
■第二尚氏王統・3代目王・尚真王の三男・尚韶威、今帰仁王子朝典を元祖とする琉球王族。
■代々今帰仁間切(今帰仁村)の按司地頭を務めてきたが、王国末期に具志川間切(うるま市)に転任したことから具志川御殿と呼ばれる。

琉球の位階・地頭職と采地

地頭職と采地
[官職] [制度]
【地頭職と采地】
■大きく分けて、王族と上級士族には地頭職と采地が与えられたが、一般士族には采地はなかった。
■地頭職は
王族・按司地頭(一間切)
親方・総地頭(一間切)
親雲上・脇地頭(一村)
といった具合だった。

琉球の位階・位階

品位・位階
[官職] [制度]
【品位・位階】
無品 …王子、按司
正一品 …紫地浮織三司官
従一品 …三司官
正二品 …三司官座敷
従二品 …紫官
正三品 …申口
従三品 …申口座
正四品 …吟味役、那覇里主
従四品 …座敷
正五品 …下庫理当
従五品 …当座敷
正六品 …下庫理勢頭
従六品 …勢頭座敷
正七品 …里之子親雲上
従七品 …筑登之親雲上
正八品 …下庫理里之子
従八品 …若里之子
正九品 …下庫理筑登之
従九品 …筑登之座敷
無位 …子、仁屋

琉球の位階・称号 (りゅうきゅうのいかい・しょうごう)

身分・称号
[官職] [制度]
【身分・称号】
■王族 …王子、按司
■上級士族 …親方、親雲上。
■一般士族 …親雲上、里之子、筑登之、子、仁屋。
※王子とは国王の子、王叔、王弟の称号及び位階。
また、正室の子を直王子、側室の子を脇王子と呼んだ。
王子の称号・位階は一代限りで、王子の子は按司となった。
按司とは王家の分家の当主を表す称号だが、のちに7代続けて功績を残せない場合は、士族へと格落ちすることとなった。

琉球の位階・邸宅

琉球の邸宅
[官職] [制度]
【邸宅】
■王子、按司など王族の住むものを「御殿(うどぅん)」と呼び、
■上級士族である親方(ウェーカタ)や中級士族にあたる親雲上(ペーチン)の住むものを「殿内(どぅんち)」と呼ぶ。
■一般士族の住む家は単に「家」と呼ばれた。

今帰仁朝幸 (なきじん ちょうこう)

最後の北山監守
[人物] [按司]
■尚韶威・今帰仁王子朝典を元祖とする向氏具志川御殿の七世。
■最後の北山監守
■1665年、首里に住むように命ぜられ、同時に北山監守職も廃止された。

今帰仁朝典 (なきじん ちょうてん)

初代の北山監守
[人物] [按司]
 生没年:不詳
■第二尚氏王統・3代目王・尚真王の三男。
■唐名・尚韶威、童名・真武体金。
向氏具志川御殿における初代の北山監守
■同家七世にあたる向従憲・今帰仁按司今帰仁朝幸まで代々北山監守職を世襲した。
■「向氏具志川御殿」の元祖。
■墓所は首里の玉陵「西之玉陵」。

大城賢雄 (うふぐすくけんゆう)

鬼大城とよばれ波乱の人生を送った豪傑。
[人物] [武将]
■越来親方。
■俗称・鬼大城(おにうふぐすく)。
護佐丸阿麻和利の乱の後、勝連城主となり、阿麻和利の妻・百度踏揚を娶る。
■1469年、クーデターにより第一尚氏を滅ぼした金丸(のちの第二尚氏王統・初代王・尚円王)により城を追われます。
■第一尚氏再興を目指し、安谷屋按司、伊波按司等と北谷間切に「国直城」の築城に着手するが新王朝軍に攻められ敗走、知花グスクの洞窟に立てこもるが包囲され自害した。

百度踏揚 (ももとふみあがり)

絶世の美女と謳われた王女。
[人物] [王女]
■百十踏揚とも表される。
■第一尚氏王統・6代目王・尚泰久王の娘。
■中城城按司護佐丸の外孫。
■勝連城按司阿麻和利に嫁ぐ。
護佐丸阿麻和利の乱の後、勝連城主となった鬼大城(大城賢雄)に嫁ぐ。
■1469年、第一尚氏を滅ぼした金丸(のちの第二尚氏王統・初代王・尚円王)のクーデターの際、2番目の夫・鬼大城も知花グスクに追われ自害。
■余生は玉城で静かに暮らした。
■墓所は南城市(旧玉城村)にある。
■「絶世の美女」として知られる。

阿麻和利 (あまわり)

野心と策略の人。
[人物] [按司]
 生没年:生年不詳-1458
■北谷間切屋良村(嘉手納町字屋良)出身。
■茂知附按司を倒して勝連城の按司となる。
■東アジアとの貿易を推し進め、技術を取り入れ勝連半島において勢力を誇った。
■妻:百度踏揚(第一尚氏王統・6代目王・尚泰久王の娘)
■謀反の嫌疑をかけられた護佐丸尚泰久王の命により自刃に追い込んだ人物としても有名。
■後に阿麻和利自身も謀反の嫌疑をかけられ、鬼大城(おにうふぐすく)(大城賢雄)率いる王府軍により没したとされる。
■そののち鬼大城が勝連城主となり、阿麻和利の妻であった百度踏揚も鬼大城の妻となっている。

護佐丸 (ごさまる)

第一尚氏王統6代に仕えた忠節の人。
[人物] [按司]
 生没年:生年不詳-1458
■恩納村出身。
怕尼芝王統(北山王国)・初代王・怕尼芝によって滅ぼされた先今帰仁按司の末裔。
■1416年、尚巴志の北部征伐に参加し怕尼芝王統を滅ぼし、先祖の仇を討った。
■北山平定後、尚巴志より北山守護職に任じられる。
■1422年、尚巴志の二男尚忠が北山監守になると、護佐丸は座喜味城(読谷村在)に転居となり、以降18年間居城した。
■座喜味城や中城城を築き、中城按司となる。
五大姓(五大名門)の一つである「毛氏豊見城殿内」の元祖。
■第一尚氏王統・6代目王・尚泰久王に娘を嫁がせ妃としている。→その娘:百度踏揚
■第一尚氏王統建国の功臣で琉球統一王朝6代に仕えたが、晩年謀反の嫌疑をかけられ、第一尚氏王統・6代目王・尚泰久王の命を受けた勝連按司阿麻和利によって攻められ、王府軍と知るや妻子とともに自害した。
■その際に乳母と逃げ落ちた護佐丸の三男、盛親は第二尚氏王統・初代王・尚円王に登用されて豊見城間切の総地頭職に任じられ、五大姓の一つ毛氏豊見城殿内の基礎を成した。
■護佐丸は後世に唐名・毛国鼎(もうこくてい)を授けられている。

本部平原 (もとぶていばら)

北山王国滅亡の原因となった武将。
[人物] [武将]
怕尼芝王統(北山王国)・3代目王・攀安知に仕えていた武将。
攀安知に中山攻略を提言、挙兵したが、本部平原を心よく思っていなかった羽地、国頭、名護などの諸按司(豪族)が中山王・思紹に本部平原挙兵の事実を伝えた事により、中山の北山討伐へとつながり、中山王・思紹の子・巴志と羽地、国頭、名護などの按司連合により北山は壊滅する。
■本部平原は巴志の懐柔策によって寝返り今帰仁城に火を放ち、今帰仁城崩落の大役を果たしたが、本部平原の寝返りに怒った攀安知により殺害された。

鮫川大主 (さめかわうふぬし)

第一尚氏王統・初代王・尚思紹の父
[人物] [豪族]
■伊平屋島出身。
■父は伊平屋島の屋蔵大主
■伊平屋島の支配下にあった隣島・伊是名島に渡り島民を指揮して伊是名グスクを再建した。
■伊是名島から本島に移り、南山・大城按司の婿となり、佐敷按司となる。
■琉球王朝第一尚氏王統・初代王・尚思紹の父。

尚豊王 (しょうほうおう)

第二尚氏王統・8代目王
[人物] [国王]
 生没年:1590-1640
■琉球王国・第二尚氏王統・5代目国王・尚元王の第3王子・大金武王子朝公の4男。
■琉球王国・第二尚氏王統・8代目国王。
■琉球国王。
■居城は首里城。
■在位:1621年~1640年。
■童名は思五郎金。
■神号は天喜也末按司添(てにぎやすゑあんじおそい)。
■1636年、薩摩藩から琉球国王の王号を剥奪され、琉球国司を名乗るようになる。
■墓陵は首里玉陵
■1623年、おもろさうし全22巻のうち、1、2巻を除く20巻が編纂された。

尚寧王 (しょうねいおう)

第二尚氏王統・7代目王
[人物] [国王]
 生没年:1564-1620
■王家分家・小禄御殿3世、尚懿・与那城王子朝賢(第2代尚真王の孫)の長男で、尚永王の娘婿。
■琉球王国・第二尚氏王統・7代目国王。
■琉球国王。
■居城は首里城。
■在位:1589年~1620年。
■童名は思徳金。
■神号は日賀末按司添(てだがすえあんじおそい)。
■分家から国王に就いたことから、尚寧王一族を尚清王の家系「首里尚家」と区別する為「浦添尚家」と称する文献もある。
■1609年、薩摩藩・島津氏の侵攻を受け降伏。以後、琉球は薩摩藩と明の二ヶ国に両属する事となる。
■尚寧王は薩摩藩によって江戸に連行され、征夷大将軍の徳川秀忠に謁見、後に琉球に戻された。
■1613年、薩摩藩に奄美群島を割譲した。
■1613年、おもろさうし第2巻が編纂された。
■墓陵は浦添ようどれ

尚永王 (しょうえいおう)

第二尚氏王統・6代目王
[人物] [国王]
 生没年:1559-1588
■琉球王国・第二尚氏王統・5代目国王・尚元王の第2王子。
■琉球王国・第二尚氏王統・6代目国王。
■琉球国王。
■居城は首里城。
■在位:1573年~1588年。
■童名は阿応理屋恵(あおりやえ)王子。
■神号は英祖仁耶添按司添(えぞにやすえあじおそい)、または日豊操王。
■1588年11月25日に30歳の若さで早世。継嗣はなかった。
■墓陵は首里玉陵

尚元王 (しょうげんおう)

第二尚氏王統・5代目王
[人物] [国王]
 生没年:1528-1572
■琉球王国・第二尚氏王統・4代目国王・尚清王の第2王子。
■琉球王国・第二尚氏王統・5代目国王。
■琉球国王。
■居城は首里城。
■在位:1556年~1572年。
■童名は金千代、または鶴千代。
■神号は日始按司添(てだはじめあんじおそい)。
■1555年、父・尚清王の薨去に伴い兄弟の間で後継者争いが起きたが、父・尚清王の定め通り王位に即位。
■薩摩藩・島津貴久との良好な関係づくりに努めた。
■墓陵は首里玉陵

尚清王 (しょうせいおう)

第二尚氏王統・4代目王
[人物] [国王]
 生没年:1497-1555
■琉球王国・第二尚氏王統・3代目国王・尚真王の第5王子。
■琉球王国・第二尚氏王統・4代目国王。
■琉球国王。
■居城は首里城。
■在位:1527年~1555年。
■童名は真仁堯樽金。
■神号は天続之按司添(てにつぎのあんじおそい)。
■1537年、奄美大島・与湾大親による反乱を鎮圧。
■倭寇に対する圧力や防備も強化した。
■尚清王の没後、王子達の間で王位継承争いが起こったが、尚清が生前に後継者と定めていた第2王子の尚元王が国王に即位した。
■墓陵は首里玉陵
■1531年おもろさうしの第一巻の編集が行われた。

尚真王 (しょうしんおう)

第二尚氏王統・3代目王
[人物] [国王]
 生没年:1465-1527
■琉球王国・第二尚氏王統・初代国王・尚円王の子。
■琉球王国・第二尚氏王統・3代目国王。
■琉球国王。
■居城は首里城。
■在位:1477年~1527年。
■童名は真加戸樽金(まかとたるかね)。
■神号は於義也嘉茂慧(おぎやかもい)。
■1500年、オヤケアカハチの乱を平定して八重山諸島を平定。
■1522年、与那国島を平定。
■地方の按司を首里に集居させ、中央集権化を図り王権の強化をはかった。
■50年に渡る在位で琉球王朝の基盤を充実させた。
■墓陵は首里玉陵

尚円王 (しょうえんおう)

第二尚氏王統・初代王
[人物] [国王]
 生没年:1415-1476
■父・尚稷、母・瑞雲。
■妃・世添大美御前加那志。
■幼名を思徳金(うみとくがね)といい、以降は金丸(かなまる)と名乗る。
■1415年、伊是名島、諸見村生まれ。
■琉球王国・第二尚氏王統・初代国王。
■琉球国王(琉球国中山王)。
■居城は首里城。
■在位:1469年~1476年。
■神号は金丸按司添末続之王仁子(かなまるあじすえつぎのおうにし)。
■(1434年)20歳、両親を亡くす。
■(1438年)24歳、妻と弟を連れ国頭村に移動。
■(1441年)27歳、首里に移動。越来王子(後の尚泰久王)に見い出されその家臣となる。
■(1452年)38歳、最高位・黄冠を授かる。
■(1454年)40歳、尚泰久の即位を機に、西原間切の内間領主に任命される。
■(1459年)45歳、御物城御鎖側官(貿易長官)に就任。
■(1460年)46歳、長年寵愛を受けた尚泰久王が薨去。尚徳王即位。
■(1468年)54歳、尚徳王との関係が上手くいかないまま内間村に隠遁。
■(1469年)55歳、4月尚徳王が薨去。重臣会議による次期国王推挙を受け尚円として王位に即位した。
■即位に当たり「尚氏」を名乗った背景として、当時の琉球経済は明との朝貢貿易により成り立っており、王統の継続を装う必要があったからと考えられる。
■第二尚氏時代に編纂された「中山世譜」「球陽」を見るにあたっても、第一尚氏一党に対する殺戮は行われている事から、王統交代にあたっての粛清が行われたのは間違いないと考えられる。
■天王寺・龍福寺・崇元寺を建立。
■朝貢貿易の進貢間隔を二年一貢と制定。
■墓陵は見上森陵~首里玉陵

尚徳王 (しょうとくおう)

第一尚氏王統・7代目王、琉球統一王朝・6代目王で第一尚氏王統最後の王。
[人物] [国王]
 生没年:1441-1469
■琉球国中山王。
■居城は首里城。
■在位:1460年~1469年。
■神号は八幡按司または世高王。
尚泰久王の三男(側室・宮里阿護母志良礼の子)。
■1460年、父・尚泰久王の死去により妾腹だが長兄・金橋王子を退けて第一尚氏王統・7代目王に即位。
■マラッカとの交易を開始。
■1466年、自ら2000の兵を率いて喜界島へ遠征し領土を拡大。
■足利義政に使節団を派遣。
■朝鮮から方冊蔵経を贈られる。
■天界寺を創建。
■1469年、29歳で薨去。直後に金丸(後の尚円王)がクーデターを起こし、第一尚氏王統一族はことごとく殺害、追放され、第一尚氏王統は滅亡した。
■なお、尚徳王の崩御については、久高島で愛妾にうつつを抜かしているうちにクーデターが起き、漁師から金丸即位を聞き、憤って海に投身したとの説もある。
■第一尚氏王統最後の国王となった。

尚巴志王 (しょう はしおう)

第一尚氏王統・2代目王 琉球統一王朝・初代王
[人物] [国王]
 生没年:1372-1439
■琉球国中山王。
■居城は首里城。
■琉球王国の第一尚氏王統・2代目王。
■琉球王国最初の統一王朝を成立させた。
■在位:1421年~1439年。
■神号は勢治高真物(せじたかまもの)。
■21歳で父の後を継ぎ南山の佐敷按司となる。
■1406年、父・尚思紹と共に中山王・武寧察度王朝を攻略、首里に遷都、明の永楽帝に遣いを出し、父・尚思紹を中山王に即位させる。
■1416年、父・尚思紹と共に北山王・攀安知怕尼芝王朝を攻略、次男尚忠を北山監守として北部を管理下に収める。
■1421年、父・尚思紹王の崩御により中山王に即位。
■1429年、南山王・他魯毎の大里王朝を攻略し三山を統一、第一尚氏王統による琉球王国最初の統一王朝を成立させた。
■首里城を築き拡張整備した。
■那覇港の整備をし、中国、日本、朝鮮、南方諸国との交易を行なった。

尚思紹王 (しょう ししょうおう)

第一尚氏王統・初代王
[人物] [国王]
 生没年:1354-1421
■琉球国中山王。
■居城は佐敷城。
■琉球王国の第一尚氏王統・初代国王。
■在位:1406年~1421年。
■神号は君志真物(きみしまもの)。
■父は鮫川大主(さめかわうふぬし)、母は大城按司の娘、祖父は伊平屋島の屋蔵大主
■1406年、長男・尚巴志が中山王・武寧を滅ぼし、明の永楽帝に遣いを出して、父である思紹が中山王となった。
その際、尚巴志は「父思紹は武寧の子である」と称して明に遣使している。
■1416年、長男・尚巴志と共に怕尼芝王統(北山王国)を平らげる。
■陵墓は「佐敷ようどれ」。航空自衛隊知念分屯基地管理地区(南城市佐敷)にあるゲートで「佐敷ようどれ」に行きたいと伝えれば通してもらえるようだ。

珉 (みん)

怕尼芝王統(北山王国)・2代目王
[人物] [北山王]
 生没年:-1400
■琉球国北山王。
■在位:1393年~1400年。
■居城は今帰仁城。
怕尼芝王統・初代王、怕尼芝の長男。
■実際には王ではなく羽地按司と称していたと考えられる。

怕尼芝 (はにじ)

怕尼芝王統(北山王国)・初代王
[人物] [北山王]
 生没年:-1395
■琉球国北山王。
■在位:1322年~1395年。
■居城は今帰仁城。
英祖王統・初代王・英祖の次男、湧川按司の孫という説がある。
■1383年1月、明の永楽帝が琉球諸王国間の停戦の奉勅を下し、あわせて朝貢を命じた。これに応じて同年12月に進貢する。以後、1384年、1385年、1388年に2回、1390年の朝貢の記録がある。1385年には駝紐鍍金印を下賜されている。
■親子数代で同じ名を襲名した可能性がある。
■実際には王ではなく羽地按司と称していたと考えられる。

武寧 (ぶねい)

察度王統(中山王国)・2代目王で察度王統最後の王。
[人物] [中山王]
 生没年:1356-1405 以降不明
■琉球国中山王。
■在位:1396年~1405年。
■居城は浦添城。
察度王統・初代王、察度の子。
■神号は中之真物(なかのまもの)。
■明より中山王に琉球で初めて冊封された王とされる。
 (父、察度が初めてとする説もある)
察度王統最後の王。
■1405年、沖縄統一を目指す尚巴志・思紹親子が襲来、配下の裏切りもあり、居城・浦添城を下城し、中山王国は滅亡した。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

察度 (さっと)

察度王統(中山王国)・初代王
[人物] [中山王]
 生没年:1321-1395
■琉球国中山王。
■在位:1350年~1395年。
■居城は浦添城。
■宜野湾出身。
■神号は大真物(うふまもの)。
■貧しい家の出身だが、勝連按司の娘と結婚し、30歳の時、浦添の英祖王統を滅ぼし察度王統を興した。
■明との交流を開始した王で明より王位に冊封された。
 (子、武寧が初めてとする説もある)
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

西威 (せいい)

英祖王統・5代目王で英祖王統最後の王。
[人物] [中山王]
 生没年:1328-1349
■琉球国中山王。
■在位:1336年~1349年。
■居城は浦添城。
英祖王統・4代目王、玉城の長男。
英祖王統最後の王となった。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

玉城 (たまぐすく)

英祖王統・4代目王
[人物] [中山王]
 生没年:1296-1336
■琉球国中山王。
■在位:1313年~1336年。
■居城は浦添城。
英祖王統・3代目王、英慈の三男。
■玉城の在位中に、英祖王統が存在した中山の他に、南山・北山でも王朝が成立した。
■弛緩した政治を行い、英祖王統滅亡の一因とされる。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

英慈 (えいじ)

英祖王統・3代目王
[人物] [中山王]
 生没年:1268-1313
■琉球国中山王。
■在位:1308年~1313年。
■居城は浦添城。
英祖王統・2代目王、大成の次男。
■弟は勝連城主、勝連。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

大成 (たいせい)

英祖王統・2代目王
[人物] [中山王]
 生没年:1247-1308
■琉球国中山王。
■在位:1300年~1308年
■居城は浦添城。
英祖王統・初代王、英祖の長男。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

英祖 (えいそ)

英祖王統・初代王
[人物] [中山王]
 生没年:1229-1299
■琉球国中山王。
■在位:1260年~1299年。
■居城は浦添城。
舜天王統の3代目王、義本から王位を譲位され、英祖王統・初代王となる。
■父は浦添按司・伊祖城主であった恵祖世主。
■英祖在位中、南宋から僧禅鑑が来沖し仏教が伝来したとされている。
■浦添市にある「浦添ようどれ」は英祖の陵墓(極楽陵)である。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

義本 (ぎほん)

舜天王統・3代目王で舜天王統最後の王。
[人物] [中山王]
 生没年:1206-1259 以降不明
■琉球国中山王。
■在位:1249年~1259年
■居城は浦添城。
舜天王統・2代目王、舜馬順煕の子。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。
■その在位中、天災や疫病が発生した事の責任を取って、摂政職にあった英祖に譲位をした。これにより「舜天王統」はわずか3代で終わりを告げる。

舜馬順煕 (しゅんばじゅんき)

舜天王統・2代目王
[人物] [中山王]
 生没年:1185-1248
■琉球国中山王。
■在位:1238年~1248年
■居城は浦添城。
舜天王統・初代王、舜天の子。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

舜天 (しゅんてん)

舜天王統・初代王、初めての中山王(琉球国王)。
[人物] [中山王]
 生没年:1166-1237
■琉球国中山王。
■居城は浦添城。
■在位:1187年~1237年
■「中山世鑑」(1655年)や「中山世譜」(1701年)といった正史では、初代琉球国王と位置づけられている。
■舜天の父は「中山世鑑」や「おもろさうし」、「鎮西琉球記」、「椿説弓張月」などでは、保元の乱で流罪となった源為朝(鎮西八郎為朝)で、母は大里按司の妹とされている。
■幼名を尊敦(そんとん)といった。
■15歳で浦添按司となる。
■22歳(1187年)の時、謀反を起こし中山王に就いた利勇を討った功績により諸侯の推挙を受けて中山王となった。
■歴史的資料としては国王頌徳碑(石門之東之碑文)(1522年)や浦添城の前の碑文(1597年)にその名をみる事ができる。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

琉球・沖縄の歴史上の偉人や事柄辞典。