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琉球・沖縄の歴史上の偉人や事柄辞典。 title=

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中山王 での検索結果

29件の該当データがありました。

程順則 (ていじゅんそく)

「琉球の五偉人」の一人。日本中に影響を与えた教育の祖。
[人物] [学者]
■第二尚氏王統・11代目国王・尚貞王、12代目国王・尚益王、13代目国王・尚敬王の時代に活躍した琉球王国の士族。
■1663年 - 1735年。
■唐名:程順則。名乗:寵文(ちょうぶん)。→程順則・名護親方(なぐうぇーかた)寵文。
■1706年、「琉球国中山王府官制」に九品十八階の位階制度を制定。
■1714年、琉球で最初の公的教育機関となる明倫堂の創設を建議した。
■「六諭衍義」を清から琉球へ持ち帰ったが、それが後に日本各地の寺子屋に普及する事になった。

宝剣「千代金丸」 (ちよがねまる)

琉球王家尚家伝来品・三振りの一つ
[重要文化財] [宝剣]
怕尼芝王統(北山王国)・3代目王・攀安知が、中山王・思紹の子・巴志の北山攻めの際に使用した宝剣。
怕尼芝王統・先祖伝来の宝剣とされる。
■後に尚氏の手に渡った。
■「琉球王家尚家伝来品」三振りの宝剣の一つ。
■2006年、「琉球国王尚家関係資料」として国宝に指定された。
■指定名称は「金装宝剣拵 刀身無銘(号 千代金丸)」。
【琉球王家尚家伝来品・三振り】
・千代金丸(ちよがねまる)
・治金丸(ちがねまる)
・北谷菜切(ちゃたんなきり)

久米三十六姓 (くめさんじゅうろくせい)

約五百年の長きにわたり貿易や外交に従事した集団。
[家系] [門中]
■1392年、察度王統(中山王国)・初代王・察度の後期に洪武帝より賜った多くの学者や航海士などの職能集団。
■彼らの出身地が?(びん)と呼ばれる地域(現在の福建省あたり)だったことから「?人三十六姓」という事もある。
■彼らの子孫が那覇の久米村に定住し、中国との外交や貿易といった特殊な職能集団だったことから、後に多くの学者や政治家を輩出した。
蔡鐸の子で三司官に就任した蔡温も久米士族として異例の抜擢を受けた一人。
■しかし、近年の研究で、久米村を形成した中華系の人々は、元は貿易、商売で琉球に来て定住した中国人の子孫ではないかという説が有力になってきている。

琉球の位階 (りゅうきゅうのいかい)

九品十八階の位階制度
[官職] [制度]
■琉球王国・第二尚氏王統・3代目国王・尚真王の時代にその基本形が確立された。
■1509年、金銀の簪(ジーファー、かんざし)によって貴賤の別を定めた。
■1524年、六色の冠(ハチマチ)によって等級が制定された。
■のち1706年、「琉球国中山王府官制」に九品十八階の位階制度を程順則らが制定。
■1732年、位階昇進の細目を記した「位階定」を蔡温が制定。
■位階制度は上級士族と一般士族に適応されたもので、王族は位階制度の上に位置づけ、平民は位階制度の下に位置づけられている。

北山監守 (ほくざんかんしゅ)

北山の監視に設置された要職。
[制度] [官職]
■旧北山国(現今帰仁村を中心とした沖縄本島北部)の監視及び統治を目的として設けられた琉球王国の官職。
中山王・思紹の子・巴志が怕尼芝王統(北山王国)・攀安知を攻略した後、次男尚忠を北山監守として置いたのが始まり。
今帰仁朝幸が最後の北山監守となり、第二尚氏王統・10代目王・尚質王の1665年に廃止された。

本部平原 (もとぶていばら)

北山王国滅亡の原因となった武将。
[人物] [武将]
怕尼芝王統(北山王国)・3代目王・攀安知に仕えていた武将。
攀安知に中山攻略を提言、挙兵したが、本部平原を心よく思っていなかった羽地、国頭、名護などの諸按司(豪族)が中山王・思紹に本部平原挙兵の事実を伝えた事により、中山の北山討伐へとつながり、中山王・思紹の子・巴志と羽地、国頭、名護などの按司連合により北山は壊滅する。
■本部平原は巴志の懐柔策によって寝返り今帰仁城に火を放ち、今帰仁城崩落の大役を果たしたが、本部平原の寝返りに怒った攀安知により殺害された。

尚敬王 (しょうけいおう)

第二尚氏王統・13代目王
[人物] [国王]
 生没年:1700-1752
■琉球王国・第二尚氏王統・12代目国王・尚益王の長男。
■琉球王国・第二尚氏王統・13代目国王。
■琉球国中山王→琉球国王。
■居城は首里城。
■在位:1713年~1752年。
■蔡温を三司官に取り立て数多くの改革を行った。
■教育文化振興に力を入れ琉球を文化大国へ導いた。
■近世の名君と謳われた人物。
■1712年、薩摩藩の許しを得て琉球国司から琉球国王の王号に復した。
■墓陵は首里玉陵

尚益王 (しょうえきおう)

第二尚氏王統・12代目王
[人物] [国王]
 生没年:1678-1712
■琉球王国・第二尚氏王統・11代目国王・尚貞王の孫で中城王子・尚純の子。
■琉球王国・第二尚氏王統・12代目国王。
■琉球国中山王
■居城は首里城。
■在位:1710年~1712年。

尚貞王 (しょうていおう)

第二尚氏王統・11代目王
[人物] [国王]
 生没年:1645-1709
■琉球王国・第二尚氏王統・10代目国王・尚質王の長男。
■琉球王国・第二尚氏王統・11代目国王。
■琉球国中山王
■居城は首里城。
■在位:1669年~1709年。
■尚貞王の時代に蔡鐸(蔡温の父)が「中山世譜」を編集した。
■墓陵は首里玉陵

尚質王 (しょうしつおう)

第二尚氏王統・10代目王
[人物] [国王]
 生没年:1629-1668
■琉球王国・第二尚氏王統・8代目国王・尚豊王の4男で、9代目国王・尚賢王の弟。
■琉球王国・第二尚氏王統・10代目国王。
■琉球国中山王
■居城は首里城。
■在位:1648年~1668年。
■童名は思徳金(うみとくがね)。
■「中山世鑑」を編集した羽地朝秀を摂政とし数多くの改革を行なった。
■墓陵は首里玉陵

尚賢王 (しょうけんおう)

第二尚氏王統・9代目王
[人物] [国王]
 生没年:1625-1647
■琉球王国・第二尚氏王統・8代目国王・尚豊王の3男。
■琉球王国・第二尚氏王統・9代目国王。
■琉球国中山王
■居城は首里城。
■在位:1641年~1647年。
■薩摩生まれ、17歳の時に即位した。
■「遠見番」を作り、烽火の制を定めた。
■黒糖、ウコンの専売制を始めた。
■墓陵は首里玉陵

尚円王 (しょうえんおう)

第二尚氏王統・初代王
[人物] [国王]
 生没年:1415-1476
■父・尚稷、母・瑞雲。
■妃・世添大美御前加那志。
■幼名を思徳金(うみとくがね)といい、以降は金丸(かなまる)と名乗る。
■1415年、伊是名島、諸見村生まれ。
■琉球王国・第二尚氏王統・初代国王。
■琉球国王(琉球国中山王)。
■居城は首里城。
■在位:1469年~1476年。
■神号は金丸按司添末続之王仁子(かなまるあじすえつぎのおうにし)。
■(1434年)20歳、両親を亡くす。
■(1438年)24歳、妻と弟を連れ国頭村に移動。
■(1441年)27歳、首里に移動。越来王子(後の尚泰久王)に見い出されその家臣となる。
■(1452年)38歳、最高位・黄冠を授かる。
■(1454年)40歳、尚泰久の即位を機に、西原間切の内間領主に任命される。
■(1459年)45歳、御物城御鎖側官(貿易長官)に就任。
■(1460年)46歳、長年寵愛を受けた尚泰久王が薨去。尚徳王即位。
■(1468年)54歳、尚徳王との関係が上手くいかないまま内間村に隠遁。
■(1469年)55歳、4月尚徳王が薨去。重臣会議による次期国王推挙を受け尚円として王位に即位した。
■即位に当たり「尚氏」を名乗った背景として、当時の琉球経済は明との朝貢貿易により成り立っており、王統の継続を装う必要があったからと考えられる。
■第二尚氏時代に編纂された「中山世譜」「球陽」を見るにあたっても、第一尚氏一党に対する殺戮は行われている事から、王統交代にあたっての粛清が行われたのは間違いないと考えられる。
■天王寺・龍福寺・崇元寺を建立。
■朝貢貿易の進貢間隔を二年一貢と制定。
■墓陵は見上森陵~首里玉陵

尚徳王 (しょうとくおう)

第一尚氏王統・7代目王、琉球統一王朝・6代目王で第一尚氏王統最後の王。
[人物] [国王]
 生没年:1441-1469
■琉球国中山王
■居城は首里城。
■在位:1460年~1469年。
■神号は八幡按司または世高王。
尚泰久王の三男(側室・宮里阿護母志良礼の子)。
■1460年、父・尚泰久王の死去により妾腹だが長兄・金橋王子を退けて第一尚氏王統・7代目王に即位。
■マラッカとの交易を開始。
■1466年、自ら2000の兵を率いて喜界島へ遠征し領土を拡大。
■足利義政に使節団を派遣。
■朝鮮から方冊蔵経を贈られる。
■天界寺を創建。
■1469年、29歳で薨去。直後に金丸(後の尚円王)がクーデターを起こし、第一尚氏王統一族はことごとく殺害、追放され、第一尚氏王統は滅亡した。
■なお、尚徳王の崩御については、久高島で愛妾にうつつを抜かしているうちにクーデターが起き、漁師から金丸即位を聞き、憤って海に投身したとの説もある。
■第一尚氏王統最後の国王となった。

尚泰久王 (しょう たいきゅうおう)

第一尚氏王統・6代目王 琉球統一王朝・5代目王
[人物] [国王]
 生没年:1415-1460
■琉球国中山王
■居城は首里城。
■在位:1453年~1460年。
■神号は那之志与茂伊(なのしよもい)、又は大世主(おほよのぬし)。
■尚巴志の五男であり、前王・尚金福王の弟。
護佐丸の娘を妃とした。
■当初は越来間切を与えられて越来王子と呼ばれていた。
■第一尚氏王統・4代目王・尚思達王の時、越来王子時代に金丸(後の尚円王)を見出し王府官僚として推薦。
■1449年、兄である尚金福王の死去により王子兄弟による「志魯・布里の乱」が勃発、双方が共倒れになり、第一尚氏王統・6代目王に即位。
■銅銭・永楽通宝を元に大世通宝(たいせつうほう)を作成した。
■1458年頃、「万国津梁の鐘」を鋳造した。
■「護佐丸阿麻和利の乱」を鎮圧した。

尚金福王 (しょうきんぷくおう)

第一尚氏王統・5代目王 琉球統一王朝・4代目王
[人物] [国王]
 生没年:1398-1453
■琉球国中山王
■居城は首里城。
■在位:1449年~1453年。
■在位期間:4年。
■神号は君志(きみし)。
尚巴志王の子であり、尚忠王の弟。前王・尚思達王の叔父にあたる。
■1449年、甥である尚思達王の死去により第一尚氏王統・5代目王に即位。
■「長虹堤(ちょうこうてい)」の建造…1451年、明からの冊封使を迎え入れるため、浮島と呼ばれる小港・那覇を貿易港として整備し、那覇市松山付近にあった伊辺嘉麻(いべがま)から崇元寺付近(那覇市泊)までの間に「長虹堤(ちょうこうてい)」と呼ばれる約1kmの堤防と橋からなる堤道を建設させ首里との道を繋いだ。
■当時の安里川、国場川流域は点在する小島の集まりであったが長虹堤の建造により、港・那覇の人口が増加するとともに埋め立てが進んだ。特に明治以降の埋め立てにより現在の形となった。
■尚金福王の崩御に伴い、息子の志魯と弟の布里が王位を争い「志魯・布里の乱」を引き起こした。

尚思達王 (しょう したつおう)

第一尚氏王統・4代目王 琉球統一王朝・3代目王
[人物] [国王]
 生没年:1408-1449
■琉球国中山王
■居城は首里城。
■在位:1444年~1449年。
■在位期間:5年。
■神号は君日(きみてぃだ)。
■1444年、父尚忠王の死去により第一尚氏王統・4代目王に即位。
■尚思達王宝形の後、王位は叔父・尚金福王が継いだ。

尚忠王 (しょう ちゅうおう)

第一尚氏王統・3代目王 琉球統一王朝・2代目王
[人物] [国王]
 生没年:1391-1444
■琉球国中山王
■居城は首里城。
■初代北山監守
■在位:1439年~1444年。
■在位期間:5年。
■1439年、父尚巴志王の死去により第一尚氏王統・3代目王に即位。
■南方貿易にも力を入れたとされる。

尚巴志王 (しょう はしおう)

第一尚氏王統・2代目王 琉球統一王朝・初代王
[人物] [国王]
 生没年:1372-1439
■琉球国中山王
■居城は首里城。
■琉球王国の第一尚氏王統・2代目王。
■琉球王国最初の統一王朝を成立させた。
■在位:1421年~1439年。
■神号は勢治高真物(せじたかまもの)。
■21歳で父の後を継ぎ南山の佐敷按司となる。
■1406年、父・尚思紹と共に中山王武寧察度王朝を攻略、首里に遷都、明の永楽帝に遣いを出し、父・尚思紹を中山王に即位させる。
■1416年、父・尚思紹と共に北山王・攀安知怕尼芝王朝を攻略、次男尚忠を北山監守として北部を管理下に収める。
■1421年、父・尚思紹王の崩御により中山王に即位。
■1429年、南山王・他魯毎の大里王朝を攻略し三山を統一、第一尚氏王統による琉球王国最初の統一王朝を成立させた。
■首里城を築き拡張整備した。
■那覇港の整備をし、中国、日本、朝鮮、南方諸国との交易を行なった。

尚思紹王 (しょう ししょうおう)

第一尚氏王統・初代王
[人物] [国王]
 生没年:1354-1421
■琉球国中山王
■居城は佐敷城。
■琉球王国の第一尚氏王統・初代国王。
■在位:1406年~1421年。
■神号は君志真物(きみしまもの)。
■父は鮫川大主(さめかわうふぬし)、母は大城按司の娘、祖父は伊平屋島の屋蔵大主
■1406年、長男・尚巴志が中山王武寧を滅ぼし、明の永楽帝に遣いを出して、父である思紹が中山王となった。
その際、尚巴志は「父思紹は武寧の子である」と称して明に遣使している。
■1416年、長男・尚巴志と共に怕尼芝王統(北山王国)を平らげる。
■陵墓は「佐敷ようどれ」。航空自衛隊知念分屯基地管理地区(南城市佐敷)にあるゲートで「佐敷ようどれ」に行きたいと伝えれば通してもらえるようだ。

武寧 (ぶねい)

察度王統(中山王国)・2代目王で察度王統最後の王。
[人物] [中山王]
 生没年:1356-1405 以降不明
■琉球国中山王
■在位:1396年~1405年。
■居城は浦添城。
察度王統・初代王、察度の子。
■神号は中之真物(なかのまもの)。
■明より中山王に琉球で初めて冊封された王とされる。
 (父、察度が初めてとする説もある)
察度王統最後の王。
■1405年、沖縄統一を目指す尚巴志・思紹親子が襲来、配下の裏切りもあり、居城・浦添城を下城し、中山王国は滅亡した。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

察度 (さっと)

察度王統(中山王国)・初代王
[人物] [中山王]
 生没年:1321-1395
■琉球国中山王
■在位:1350年~1395年。
■居城は浦添城。
■宜野湾出身。
■神号は大真物(うふまもの)。
■貧しい家の出身だが、勝連按司の娘と結婚し、30歳の時、浦添の英祖王統を滅ぼし察度王統を興した。
■明との交流を開始した王で明より王位に冊封された。
 (子、武寧が初めてとする説もある)
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

西威 (せいい)

英祖王統・5代目王で英祖王統最後の王。
[人物] [中山王]
 生没年:1328-1349
■琉球国中山王
■在位:1336年~1349年。
■居城は浦添城。
英祖王統・4代目王、玉城の長男。
英祖王統最後の王となった。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

玉城 (たまぐすく)

英祖王統・4代目王
[人物] [中山王]
 生没年:1296-1336
■琉球国中山王
■在位:1313年~1336年。
■居城は浦添城。
英祖王統・3代目王、英慈の三男。
■玉城の在位中に、英祖王統が存在した中山の他に、南山・北山でも王朝が成立した。
■弛緩した政治を行い、英祖王統滅亡の一因とされる。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

英慈 (えいじ)

英祖王統・3代目王
[人物] [中山王]
 生没年:1268-1313
■琉球国中山王
■在位:1308年~1313年。
■居城は浦添城。
英祖王統・2代目王、大成の次男。
■弟は勝連城主、勝連。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

大成 (たいせい)

英祖王統・2代目王
[人物] [中山王]
 生没年:1247-1308
■琉球国中山王
■在位:1300年~1308年
■居城は浦添城。
英祖王統・初代王、英祖の長男。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

英祖 (えいそ)

英祖王統・初代王
[人物] [中山王]
 生没年:1229-1299
■琉球国中山王
■在位:1260年~1299年。
■居城は浦添城。
舜天王統の3代目王、義本から王位を譲位され、英祖王統・初代王となる。
■父は浦添按司・伊祖城主であった恵祖世主。
■英祖在位中、南宋から僧禅鑑が来沖し仏教が伝来したとされている。
■浦添市にある「浦添ようどれ」は英祖の陵墓(極楽陵)である。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

義本 (ぎほん)

舜天王統・3代目王で舜天王統最後の王。
[人物] [中山王]
 生没年:1206-1259 以降不明
■琉球国中山王
■在位:1249年~1259年
■居城は浦添城。
舜天王統・2代目王、舜馬順煕の子。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。
■その在位中、天災や疫病が発生した事の責任を取って、摂政職にあった英祖に譲位をした。これにより「舜天王統」はわずか3代で終わりを告げる。

舜馬順煕 (しゅんばじゅんき)

舜天王統・2代目王
[人物] [中山王]
 生没年:1185-1248
■琉球国中山王
■在位:1238年~1248年
■居城は浦添城。
舜天王統・初代王、舜天の子。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

舜天 (しゅんてん)

舜天王統・初代王、初めての中山王(琉球国王)。
[人物] [中山王]
 生没年:1166-1237
■琉球国中山王
■居城は浦添城。
■在位:1187年~1237年
■「中山世鑑」(1655年)や「中山世譜」(1701年)といった正史では、初代琉球国王と位置づけられている。
■舜天の父は「中山世鑑」や「おもろさうし」、「鎮西琉球記」、「椿説弓張月」などでは、保元の乱で流罪となった源為朝(鎮西八郎為朝)で、母は大里按司の妹とされている。
■幼名を尊敦(そんとん)といった。
■15歳で浦添按司となる。
■22歳(1187年)の時、謀反を起こし中山王に就いた利勇を討った功績により諸侯の推挙を受けて中山王となった。
■歴史的資料としては国王頌徳碑(石門之東之碑文)(1522年)や浦添城の前の碑文(1597年)にその名をみる事ができる。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

琉球・沖縄の歴史上の偉人や事柄辞典。