宜湾朝保 (ぎわん ちょうほ)
人物 - 政治家 -
■唐名:向有恒。名乗:朝保。→向有恒・宜湾親方朝保。
■接貢船修甫奉行→異国船御用係→学校奉行→系図奉行→三司官。
■後年、歌人、八田知紀に和歌を師事し、松風斎を名乗り、琉球歌壇の基礎を築いた。
護佐丸 (ごさまる)
人物 - 按司 -
■恩納村出身。
■怕尼芝王統(北山王国)・初代王・怕尼芝によって滅ぼされた先今帰仁按司の末裔。
■1416年、尚巴志の北部征伐に参加し怕尼芝王統を滅ぼし、先祖の仇を討った。
■北山平定後、尚巴志より北山守護職に任じられる。
■1422年、尚巴志の二男尚忠が北山監守になると、護佐丸は座喜味城(読谷村在)に転居となり、以降18年間居城した。
■座喜味城や中城城を築き、中城按司となる。
■五大姓(五大名門)の一つである「毛氏豊見城殿内」の元祖。
■第一尚氏王統・6代目王・尚泰久王に娘を嫁がせ妃としている。→その娘:百度踏揚。
■第一尚氏王統建国の功臣で琉球統一王朝6代に仕えたが、晩年謀反の嫌疑をかけられ、第一尚氏王統・6代目王・尚泰久王の命を受けた勝連按司・阿麻和利によって攻められ、王府軍と知るや妻子とともに自害した。
■その際に乳母と逃げ落ちた護佐丸の三男、盛親は第二尚氏王統・初代王・尚円王に登用されて豊見城間切の総地頭職に任じられ、五大姓の一つ毛氏豊見城殿内の基礎を成した。
■護佐丸は後世に唐名・毛国鼎(もうこくてい)を授けられている。