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琉球・沖縄の歴史上の偉人や事柄辞典。 title=

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95件の該当データがありました。

浦添ようどれ (うらそえようどれ)

国指定史跡「浦添城跡」の一部をなす琉球国王の墓。
[史跡] [国指定史跡] [墓陵]
■浦添市仲間2丁目在。
英祖統・初代英祖」と第二尚氏統・7代目尚寧」の墓陵であり、西室に英祖、東室に尚寧が埋葬されている。
英祖統・初代英祖」の1273年に英祖自身により造営されたと考えられている。
■「ようどれ」とは夕凪を意味する言葉。

おもろさうし (おもろさうし)

当時の人々の暮らしをうかがわせる1554首の歌集。
[書物] [歌集]
■第二尚氏統・1531年(4代目尚清)~1613年(7代目尚寧)~1623年(8代目尚豊)の3代3回にまたがり琉球政府によりまとめられた歌謡集。
■琉球の人々の暮らしやできごとを垣間見る事の出来る歴史的資料であり、琉歌の中にもその流れをみる事ができ、後年、伊波普猷によって研究されたことでも知られる。
■全22巻1554首。
■鳥越憲三郎による「おもろさうし全釈(1968年出版)」や外間守善、波照間永吉による「定本おもろさうし」等でわかりやすくをの内容を知る事ができる。

伊波普猷 (いは ふゆう)

琉球王国から沖縄県に変わりゆく明治時代を生き「沖縄学の父」と呼ばれた沖縄研究の第一人者。
[人物] [学者]
 生没年:1876-1947
■那覇市西町。
■誕生日:1876/03/15。
■没年:1947/08/13。
■学歴:第三高等学校→東京大学卒業。
■沖縄県立図書館館長を経て東京で沖縄研究を進め、沖縄に関する300余りの論文や「沖縄歴史物語」などの出版物を残した。
■とくに「おもろさうし」の研究をしたことで知られる言語学者であり民俗学者。

利勇 (りゆう)

主家を滅ぼし王位に就くが舜天に倒された男。
[人物] [武将]
 生没年:-1187
■琉球最初の統ともされる「天孫氏統」の25代の家臣。
■謀反を起こし天孫氏統を滅ぼし自ら位についた。
■のちに浦添按司・尊敦(後の舜天)に滅ぼされる。
■「中山世鑑」(1655年)、「中山世譜」(1701年)、「球陽」などに登場する。

儀間真常 (ぎま しんじょう)

琉球王朝の産業の基礎を築いた「琉球の五偉人」。
[人物] [政治家]
 生没年:1557-1644
■麻時嘗・儀間親雲上真命の三男。
■唐名:麻平衡(まへいこう)。童名:真市。名乗:真常。→麻平衡・儀間親方真常。
■野國總管が1605年に中国から持ち帰ったサツマイモを県内に広め庶民の食を助けた。後にサツマイモは琉球から薩摩に伝わり日本全国に広まった。
■薩摩より木綿種を琉球に持ち込み、木綿織りを広め琉球絣(かすり)の基礎を作った。
■サトウキビを県内に広め現代につながる砂糖産業の基盤を作った。
■奥武山にある世持神社に、蔡温、野国総管とともに産業の恩人としてまつられている。

羽地朝秀 (はねじちょうしゅう)

「琉球の五偉人」の一人。
[人物] [政治家] [按司]
 生没年:1617-1676
族の羽地御殿5世・朝泰の長男。
■唐名:呉象賢。名乗:重家。→呉象賢・羽地按司重家。
■琉球国最初の歴史書「中山世鑑」の編纂を行なった。
■羽地間切の按司地頭を継いだが、1666~1673年、尚質の摂政となり、数々の改革を行ない国の経済を立て直した。
■那覇市首里平良町に「羽地朝秀の墓」がある。

遠弥計赤蜂 (オヤケアカハチ)

15世紀後期の八重山・石垣島の英雄。
[人物] [豪族]
 生没年:1400年代後半-1500
■1400年代後半の八重山の豪族。
■波照間島出身で石垣市大浜を拠点に島民に支持された。
■於屋計赤蜂と書く事もある。
■オヤケアカハチの乱…第二尚氏統・3代目尚真の1500年、琉球府への貢物を拒否し、府の軍により討伐された。
■波照間に生誕記念碑、石垣市大浜に銅像がある。

奈良原繁 (ならはら しげる)

在任16年「琉球王」の異名を取る、4代目官選知事
[人物] [官選知事]
■出身:薩摩藩
■内務権大書記官→農商務権大書記官→静岡県令→日本鉄道社長→貴族院勅選議員→沖縄県知事→貴族院勅選議員。
■杣山問題で謝花昇と争った。
■男爵。
■在任期間:1892/7/20~1908/4/6
(和暦:明治25年~明治41年)

程順則 (ていじゅんそく)

「琉球の五偉人」の一人。日本中に影響を与えた教育の祖。
[人物] [学者]
■第二尚氏統・11代目国尚貞、12代目国尚益、13代目国尚敬の時代に活躍した琉球国の士族。
■1663年 - 1735年。
■唐名:程順則。名乗:寵文(ちょうぶん)。→程順則・名護親方(なぐうぇーかた)寵文。
■1706年、「琉球国中山府官制」に九品十八階の位階制度を制定。
■1714年、琉球で最初の公的教育機関となる明倫堂の創設を建議した。
■「六諭衍義」を清から琉球へ持ち帰ったが、それが後に日本各地の寺子屋に普及する事になった。

宝剣「千代金丸」 (ちよがねまる)

琉球王家尚家伝来品・三振りの一つ
[重要文化財] [宝剣]
怕尼芝統(北山国)・3代目攀安知が、中山・思紹の子・巴志の北山攻めの際に使用した宝剣。
怕尼芝統・先祖伝来の宝剣とされる。
■後に尚氏の手に渡った。
■「琉球家尚家伝来品」三振りの宝剣の一つ。
■2006年、「琉球国尚家関係資料」として国宝に指定された。
■指定名称は「金装宝剣拵 刀身無銘(号 千代金丸)」。
【琉球家尚家伝来品・三振り】
・千代金丸(ちよがねまる)
・治金丸(ちがねまる)
・北谷菜切(ちゃたんなきり)

万国津梁の鐘 (ばんこくしんりょうのかね)

「世界を結ぶ架け橋」の思いを込めて。
[重要文化財] [国指定史跡]
■正式名称:旧首里城正殿鐘。
■1458年、第一尚氏統・6代目尚泰久の命で鋳造され、首里城正殿にかけられた。
■高さ154.9センチ、口径93.1センチ、重さ721キロ。
■「世界を結ぶ架け橋」の意。
■1978年、国指定の重要文化財に指定され、県立博物館に保管されている。

長虹堤 (ちょうこうてい)

遠望すれば長虹の如し
[建造物] [道路]
■1451年、第一尚氏統・5代目尚金福により建築された堤道。
■明からの冊封使を迎え入れるため、浮島と呼ばれる小港・那覇を貿易港として整備し、那覇市松山付近にあった伊辺嘉麻(いべがま)から崇元寺付近(那覇市泊)までの約1kmを結んだ。
■当時の安里川、国場川流域は点在する小島の集まりだったが、長虹堤の建設により、那覇の人口が増え、埋め立てが盛んになった。特に明治以降の埋め立てにより現在の形となった。
■建築担当者は宰相懐機。
■長虹堤完成の後、懐機は神に感謝するため天照大神を祀る神社と長寿寺と呼ばれる寺院を建立した。
■建設当初は「浮道」と呼ばれていたが、冊封使・杜三策の付き人・胡靖が「遠望すれば長虹の如し」と述べたことから「長虹堤」と呼ばれるようになった。
■当時の長虹堤の様子を知る事の出来る資料として、1756年、冊封使・周煌の記録「琉球国志略」に書かれた絵図「中山八景」に「長虹秋霽」として描かれており、後年、この絵図を元にした葛飾北斎の浮世絵「琉球八景」にも描かれている。

斎場御嶽 (せーふぁーうたき)

神の島・久高島の白砂を敷き詰めて執り行われる神事。
[史跡] [世界遺産]
■琉球開びゃく伝説に登場し「アマミキヨ」が造ったとされる、国始めの七御嶽の一つで琉球最高の聖地。
■「せーふぁー」は最高の位といった意味がある。
■御嶽の中には、
御門口(ウジョウグチ)、
大庫理(ウフグーイ)、
寄満(ユインチ)、
三庫理(サングーイ)
など「六つのイビ(神域)」がある。
聞得大君の就任式である「お新下り」もここで執り行われていた。
■2000年11月に首里城跡などとともに
「琉球国のグスク及び関連遺産群」
としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
【連絡先】
〒901-1511 沖縄県南城市知念久手堅270-1
TEL:098-949-1899

識名園 (しきなえん)

琉球王朝の迎賓館。
[史跡] [世界遺産]
■中国皇帝からの使者である冊封使をもてなすために作られた庭園。
■琉球国・第二尚氏統・14代目国尚穆の時代に造園が始まり、尚温の1799年に完成した。
■第二次世界大戦後にて被爆したが戦後修復された。
■2000年11月に首里城跡などとともに
「琉球国のグスク及び関連遺産群」
としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
【連絡先】
〒902-0072 沖縄県那覇市真地421-7
TEL:098-855-5936

玉陵 (たまうどぅん)

第二尚氏王統の墓。
[史跡] [世界遺産] [墓陵]
■1501年、尚真が父尚円の遺骨を改葬するために建造され、以降、第二尚氏統の陵墓となる。
■県内最大の破風墓。
■東室には妃が納骨され、西室には他の族が納骨されている。
■ちなみに中室は遺骸が骨になるまで保管するための場所。
■第二次世界大戦後にて被爆したが戦後修復された。
■玉陵全体が国の史跡。
■玉陵墓室石牆(建造物)が国の重要文化財。
■石彫獅子と玉陵碑(彫刻)が県の有形文化財。
■2000年11月に首里城跡などとともに
「琉球国のグスク及び関連遺産群」
としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
【連絡先】
〒903-0815 沖縄県那覇市首里金城町1?3
TEL:098-885-2861

園比屋武御嶽石門 (そのひやんうたきいしもん)

琉球王国の聖地であり拝所の最高峰。
[史跡] [世界遺産]
■首里城に隣接し、歓会門と守礼門との間にある「園比屋武御嶽石門」をくぐった先の森が園比屋武御嶽である。
■国が巡礼に出る前や、聞得大君就任の際の最初の拝礼にも使われた。
■尚氏ゆかりの地、伊平屋島の神「田の上のソノヒヤブ」を勧請し祭っている。
■沖縄県指定史跡。
■2000年11月に首里城跡などとともに
「琉球国のグスク及び関連遺産群」
としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

首里城跡 (しゅりじょうせき)

琉球時代最大の建造物。
[史跡] [世界遺産]
■首里城創建の時期、人物は未明。
■三山時代には中山のグスクとして機能していた。
■沖縄県内最大規模のグスク。
■首里城が現在のような姿になっていった始まりは、尚巴志が三山を統一し琉球朝の居城としてからと言われる。
■1879年、日本政府に明け渡されるまでは琉球の居城として利用された。
■2000年11月に首里城跡などとともに
「琉球国のグスク及び関連遺産群」
としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたが、その対象は「首里城跡」であり、復元された建物や城壁は世界遺産の対象とはなっていない。
■首里城周辺にある玉陵園比屋武御嶽石門なども世界遺産に登録されている。
【連絡先】
〒903-0815 沖縄県那覇市首里金城町1?2 首里城公園
TEL:098-886-2020

中城城跡 (なかぐすくじょうせき)

護佐丸が完成させた技術水準の高いグスク。
[史跡] [世界遺産]
護佐丸が座喜味城から移転してくる前から城の主要部分はあったが、護佐丸が「三の郭」、「北の郭」などを増築して完成させた。
■建築にその才能を見せた護佐丸らしく、「相方積み」で城壁を築いたり、城門がアーチ式門だったりと随所に高度な建築技法のみられる城。
護佐丸が最期を遂げた城で、そののち琉球国・中城子の居城、島津藩番所、中城村役場などとして戦前まで利用されてきた。
■1972年5月15日、沖縄の本土復帰と同時に国の史跡に指定された。
■2000年11月に首里城跡などとともに
「琉球国のグスク及び関連遺産群」
としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
【連絡先】
〒901-2402 沖縄県中頭郡北中城村字大城503
TEL:098-935-5719

勝連城跡 (かつれんじょうせき)

茂知附築城、阿麻和利の居城。
[史跡] [世界遺産]
■第一尚氏統・6代目尚泰久の時代、クーデターを企て1458年に没した阿麻和利の居城として有名。
■勝連城跡は阿麻和利の前城主・茂知附按司により築城された。
■1972年5月15日、沖縄の本土復帰と同時に国の史跡に指定された。
■2000年11月に首里城跡などとともに
「琉球国のグスク及び関連遺産群」
としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
■登録されたグスクの中では最も築城年代が古いグスクとされている。
【連絡先】
〒904-2311 沖縄県うるま市勝連南風原3908
TEL:098-978-2227

座喜味城跡 (ざきみじょうせき)

護佐丸が築城し18年間居城したグスク。
[史跡] [世界遺産]
■1416年-1422年、読谷山按司・護佐丸が築城した。
■1972年5月15日、沖縄の本土復帰と同時に国の史跡に指定された。
■2000年11月に首里城跡などとともに
「琉球国のグスク及び関連遺産群」
としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
【連絡先】
【連絡先】
〒904-0301 沖縄県中頭郡読谷村座喜味708?6
TEL:098-958-3141

今帰仁城跡 (なきじんじょうせき)

琉球国北山王の居城。
[史跡] [世界遺産]
■1416年、怕尼芝統(北山国)・3代目攀安知が中山の思紹の子・巴志との戦いで敗れた後は北山監守の居城となり、
1665年、今帰仁朝幸を最後に北山監守職が廃止されてからは、祭事を執り行う場所として利用された。
■県内最大級のグスクである。
■桜の名所として有名。
■1972年5月15日、沖縄の本土復帰と同時に国の史跡に指定された。
■2000年11月に首里城跡などとともに
「琉球国のグスク及び関連遺産群」
としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
【連絡先】
〒905-0428 沖縄県国頭郡今帰仁村字今泊5101
TEL:0980-56-4400

沖縄の世界遺産 (せかいいさん)

沖縄の王朝史がそのまま世界遺産に。
[史跡] [世界遺産]
■日本で11番目の世界遺産として、2000年11月に首里城跡などとともに
「琉球国のグスク及び関連遺産群」
としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
【一覧】
今帰仁城跡(なきじんじょうせき)
座喜味城跡(ざきみじょうせき)
勝連城跡(かつれんじょうせき)
中城城跡(なかぐすくじょうせき)
首里城跡(しゅりじょうせき)
園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)
玉陵(たまうどぅん)
識名園(しきなえん)
斎場御嶽(せーふぁーうたき)

久米三十六姓 (くめさんじゅうろくせい)

約五百年の長きにわたり貿易や外交に従事した集団。
[家系] [門中]
■1392年、察度統(中山国)・初代察度の後期に洪武帝より賜った多くの学者や航海士などの職能集団。
■彼らの出身地が?(びん)と呼ばれる地域(現在の福建省あたり)だったことから「?人三十六姓」という事もある。
■彼らの子孫が那覇の久米村に定住し、中国との外交や貿易といった特殊な職能集団だったことから、後に多くの学者や政治家を輩出した。
蔡鐸の子で三司官に就任した蔡温も久米士族として異例の抜擢を受けた一人。
■しかし、近年の研究で、久米村を形成した中華系の人々は、元は貿易、商売で琉球に来て定住した中国人の子孫ではないかという説が有力になってきている。

毛氏豊見城殿内 (もううじ とみぐすくどぅんち)

護佐丸を祖とする士族家系。
[家系] [門中]
五大姓(五大名門)の一つ。
■中城按司・護佐丸盛春を元祖とする琉球国の士族(首里士族)。
■毛氏豊見城の大宗家(本家)。
■代々豊見城間切(豊見城市)の総地頭を務めた琉球国の大名。
■名乗頭は「盛」。
■歴代当主は「豊見城親方」の呼び名で知られる。

毛氏池城殿内 (もううじいけぐすくどぅんち)

新城親方安基が祖の琉球士族。
[家系] [門中]
五大姓(五大名門)の一つ。
■新城親方安基を元祖とする琉球国の士族(首里士族)。
■代々、羽地間切(名護市羽地・屋我地)の総地頭職を務めた。
■名乗頭は「安」。

馬氏小禄殿内 (ばうじおろくどぅんち)

浦添親方良憲を祖とする士族家系。
[家系] [門中]
五大姓(五大名門)の一つ。
■浦添親方良憲を元祖とする琉球国の士族(首里士族)。
国末期に小禄間切(那覇市小禄地区)の総地頭を務めた大名。

翁氏永山殿内 (おううじながやまどぅんち)

国頭親方盛順を祖とする琉球士族の家系。
[家系] [門中]
五大姓(五大名門)の一つ。
■国頭親方盛順を元祖とする琉球国の士族(首里士族)。
国末期に中城間切津覇村(中城村津覇地区)の脇地頭を務めた。
■向氏を除く五大姓の中で唯一の脇地頭。
■分家に翁氏伊舎堂殿内があるが、そちらは中城間切(中城村、北中城村、うるま市(津堅島))の総地頭家である。

向氏嘉味田殿内 (しょううじかみだどぅんち)

尚真王の四男を祖とする琉球士族の家系。
[家系] [門中]
五大姓(五大名門)の一つ。
■第二尚氏の分家。
■第二尚氏統・3代目尚真の四男尚龍徳・越来子朝福を元祖とする琉球士族。
■代々越来間切(沖縄市越来)、喜屋武間切(糸満市)などの按司地頭職を務める琉球国の族・大名家であったが、国時代最後の当主・向椿の代で御殿から殿内に家格落ちし士族となった。

向氏具志川御殿 (しょううじぐしかわうどぅん)

尚真王の三男が祖の王族家系。
[家系] [門中]
五大姓(五大名門)の一つ。
■第二尚氏の分家。
■第二尚氏統・3代目尚真の三男・尚韶威、今帰仁子朝典を元祖とする琉球族。
■代々今帰仁間切(今帰仁村)の按司地頭を務めてきたが、国末期に具志川間切(うるま市)に転任したことから具志川御殿と呼ばれる。

四大名門門中 (よんだいめいもんもんちゅう)

政治の中心高官を産んだ門中。
[家系] [門中]
■琉球府の要職を抑えていた「向氏」「翁氏」「毛氏」「馬氏」の四姓。
→「五大姓」参照。

五大姓 (ごだいせい)

琉球王朝に仕えた五大名門門中。
[家系] [門中]
家分家である向氏、多数の府高官を輩出した翁氏、馬氏、毛氏池城、毛氏豊見城は特に五大姓(氏)、または五大名門と呼ばれる。
■毛氏池城、毛氏豊見城を合わせて、四大名門とも言う場合もある。
族だと「御殿(うどぅん)」、士族だと「殿内(殿内)」がついて呼ばれる。
→「四大名門門中」参照。

聞得大君 (きこえおおぎみ)

各地のノロの頂点に立つ神女。
[官職] [制度]
■きこえおおぎみ、きこえのおおきみ、チフィジンと読む。
■琉球神道(りゅうきゅうしんとう)といわれる琉球独自の信仰における「ノロ」と呼ばれる祝女の頂点に立つ最高神女の事。
尚真の時代に中央集権化と共に祭政一致が行われたが、その際、各地にいた神女をまとめるため神女組織が整備され、その階位の頂点として新たにこの役職が設けられた。
■琉球国で祭祀を執り行う際に使われる御嶽(うたき)の頂点である「斎場御嶽(せーふぁうたき)」を掌管し、首里城内にあった十御嶽の儀式を司った。

琉球の位階・地頭職と采地

地頭職と采地
[官職] [制度]
【地頭職と采地】
■大きく分けて、族と上級士族には地頭職と采地が与えられたが、一般士族には采地はなかった。
■地頭職は
族・按司地頭(一間切)
親方・総地頭(一間切)
親雲上・脇地頭(一村)
といった具合だった。

琉球の位階・位階

品位・位階
[官職] [制度]
【品位・位階】
無品 …子、按司
正一品 …紫地浮織三司官
従一品 …三司官
正二品 …三司官座敷
従二品 …紫官
正三品 …申口
従三品 …申口座
正四品 …吟味役、那覇里主
従四品 …座敷
正五品 …下庫理当
従五品 …当座敷
正六品 …下庫理勢頭
従六品 …勢頭座敷
正七品 …里之子親雲上
従七品 …筑登之親雲上
正八品 …下庫理里之子
従八品 …若里之子
正九品 …下庫理筑登之
従九品 …筑登之座敷
無位 …子、仁屋

琉球の位階・品位

称号・品位
[官職] [制度]
【称号・品位】
族 …無品。
■親方 …正一品~従二品。
■親雲上 …正三品~従七品。
■里之子 …正八品、従八品。
■筑登之 …正九品、従九品。
■子 …無位。
■仁屋 …無位。

琉球の位階・称号 (りゅうきゅうのいかい・しょうごう)

身分・称号
[官職] [制度]
【身分・称号】
族 …子、按司。
■上級士族 …親方、親雲上。
■一般士族 …親雲上、里之子、筑登之、子、仁屋。
子とは国の子、叔、弟の称号及び位階。
また、正室の子を直子、側室の子を脇子と呼んだ。
子の称号・位階は一代限りで、子の子は按司となった。
※按司とは家の分家の当主を表す称号だが、のちに7代続けて功績を残せない場合は、士族へと格落ちすることとなった。

琉球の位階・邸宅

琉球の邸宅
[官職] [制度]
【邸宅】
子、按司など族の住むものを「御殿(うどぅん)」と呼び、
■上級士族である親方(ウェーカタ)や中級士族にあたる親雲上(ペーチン)の住むものを「殿内(どぅんち)」と呼ぶ。
■一般士族の住む家は単に「家」と呼ばれた。

琉球の位階・身分 (りゅうきゅうのいかい・みぶん)

身分
[官職] [制度]
【身分】
族、上級士族、一般士族、平民に分かれ、位階で身分が決まるのは上級、一般の士族のみ。
族と平民は位階の上下に位置し、位階の階級はあてはめられない。
■平民の呼称については、町百姓(町民)、田舎百姓(農民)、筆算人(地方役人)などに分けられていた。

琉球の位階 (りゅうきゅうのいかい)

九品十八階の位階制度
[官職] [制度]
■琉球国・第二尚氏統・3代目国尚真の時代にその基本形が確立された。
■1509年、金銀の簪(ジーファー、かんざし)によって貴賤の別を定めた。
■1524年、六色の冠(ハチマチ)によって等級が制定された。
■のち1706年、「琉球国中山府官制」に九品十八階の位階制度を程順則らが制定。
■1732年、位階昇進の細目を記した「位階定」を蔡温が制定。
■位階制度は上級士族と一般士族に適応されたもので、族は位階制度の上に位置づけ、平民は位階制度の下に位置づけられている。

北山監守 (ほくざんかんしゅ)

北山の監視に設置された要職。
[制度] [官職]
■旧北山国(現今帰仁村を中心とした沖縄本島北部)の監視及び統治を目的として設けられた琉球国の官職。
■中山・思紹の子・巴志が怕尼芝統(北山国)・攀安知を攻略した後、次男尚忠を北山監守として置いたのが始まり。
今帰仁朝幸が最後の北山監守となり、第二尚氏統・10代目尚質の1665年に廃止された。

今帰仁朝幸 (なきじん ちょうこう)

最後の北山監守
[人物] [按司]
■尚韶威・今帰仁子朝典を元祖とする向氏具志川御殿の七世。
■最後の北山監守
■1665年、首里に住むように命ぜられ、同時に北山監守職も廃止された。

今帰仁朝典 (なきじん ちょうてん)

初代の北山監守
[人物] [按司]
 生没年:不詳
■第二尚氏統・3代目尚真の三男。
■唐名・尚韶威、童名・真武体金。
向氏具志川御殿における初代の北山監守
■同家七世にあたる向従憲・今帰仁按司・今帰仁朝幸まで代々北山監守職を世襲した。
■「向氏具志川御殿」の元祖。
■墓所は首里の玉陵「西之玉陵」。

大城賢雄 (うふぐすくけんゆう)

鬼大城とよばれ波乱の人生を送った豪傑。
[人物] [武将]
■越来親方。
■俗称・鬼大城(おにうふぐすく)。
護佐丸阿麻和利の乱の後、勝連城主となり、阿麻和利の妻・百度踏揚を娶る。
■1469年、クーデターにより第一尚氏を滅ぼした金丸(のちの第二尚氏統・初代尚円)により城を追われます。
■第一尚氏再興を目指し、安谷屋按司、伊波按司等と北谷間切に「国直城」の築城に着手するが新朝軍に攻められ敗走、知花グスクの洞窟に立てこもるが包囲され自害した。

百度踏揚 (ももとふみあがり)

絶世の美女と謳われた王女。
[人物] [王女]
■百十踏揚とも表される。
■第一尚氏統・6代目尚泰久の娘。
■中城城按司・護佐丸の外孫。
■勝連城按司・阿麻和利に嫁ぐ。
護佐丸阿麻和利の乱の後、勝連城主となった鬼大城(大城賢雄)に嫁ぐ。
■1469年、第一尚氏を滅ぼした金丸(のちの第二尚氏統・初代尚円)のクーデターの際、2番目の夫・鬼大城も知花グスクに追われ自害。
■余生は玉城で静かに暮らした。
■墓所は南城市(旧玉城村)にある。
■「絶世の美女」として知られる。

阿麻和利 (あまわり)

野心と策略の人。
[人物] [按司]
 生没年:生年不詳-1458
■北谷間切屋良村(嘉手納町字屋良)出身。
■茂知附按司を倒して勝連城の按司となる。
■東アジアとの貿易を推し進め、技術を取り入れ勝連半島において勢力を誇った。
■妻:百度踏揚(第一尚氏統・6代目尚泰久の娘)
■謀反の嫌疑をかけられた護佐丸尚泰久の命により自刃に追い込んだ人物としても有名。
■後に阿麻和利自身も謀反の嫌疑をかけられ、鬼大城(おにうふぐすく)(大城賢雄)率いる府軍により没したとされる。
■そののち鬼大城が勝連城主となり、阿麻和利の妻であった百度踏揚も鬼大城の妻となっている。

護佐丸 (ごさまる)

第一尚氏王統6代に仕えた忠節の人。
[人物] [按司]
 生没年:生年不詳-1458
■恩納村出身。
怕尼芝統(北山国)・初代怕尼芝によって滅ぼされた先今帰仁按司の末裔。
■1416年、尚巴志の北部征伐に参加し怕尼芝統を滅ぼし、先祖の仇を討った。
■北山平定後、尚巴志より北山守護職に任じられる。
■1422年、尚巴志の二男尚忠が北山監守になると、護佐丸は座喜味城(読谷村在)に転居となり、以降18年間居城した。
■座喜味城や中城城を築き、中城按司となる。
五大姓(五大名門)の一つである「毛氏豊見城殿内」の元祖。
■第一尚氏統・6代目尚泰久に娘を嫁がせ妃としている。→その娘:百度踏揚
■第一尚氏統建国の功臣で琉球統一朝6代に仕えたが、晩年謀反の嫌疑をかけられ、第一尚氏統・6代目尚泰久の命を受けた勝連按司・阿麻和利によって攻められ、府軍と知るや妻子とともに自害した。
■その際に乳母と逃げ落ちた護佐丸の三男、盛親は第二尚氏統・初代尚円に登用されて豊見城間切の総地頭職に任じられ、五大姓の一つ毛氏豊見城殿内の基礎を成した。
■護佐丸は後世に唐名・毛国鼎(もうこくてい)を授けられている。

本部平原 (もとぶていばら)

北山王国滅亡の原因となった武将。
[人物] [武将]
怕尼芝統(北山国)・3代目攀安知に仕えていた武将。
攀安知に中山攻略を提言、挙兵したが、本部平原を心よく思っていなかった羽地、国頭、名護などの諸按司(豪族)が中山・思紹に本部平原挙兵の事実を伝えた事により、中山の北山討伐へとつながり、中山・思紹の子・巴志と羽地、国頭、名護などの按司連合により北山は壊滅する。
■本部平原は巴志の懐柔策によって寝返り今帰仁城に火を放ち、今帰仁城崩落の大役を果たしたが、本部平原の寝返りに怒った攀安知により殺害された。

球陽 (きゅうよう)

全30巻からなる壮大なる歴史史書。
[書物] [正史]
 生没年:1743-1745
■1743年~1745年、第二尚氏統・13代目国尚敬の時代に琉球国の正史として編纂された史書。
中山世鑑中山世譜と並ぶ琉球史の府編纂の正史とされる書物。
■本巻正巻22巻、同付巻4巻、外巻正巻3巻、同付巻1巻から成る。
■記述は漢文による。
■鄭秉哲、伊佐川親方佑実等により編纂された。

中山世譜 (ちゅうざんせいふ)

蔡鐸によって編纂された琉球正史。
[書物] [正史]
 生没年:1697-1701
■1697~1701年、第二尚氏統・11代目尚貞の頃に書かれた正史。
中山世鑑球陽と並ぶ琉球史の府編纂の正史とされる書物。
■正巻5巻、附巻1巻から成る。
蔡鐸を中心に編纂された。

中山世鑑 (ちゅうざんせいかん)

琉球王国の初めての琉球正史
[書物] [正史]
 生没年:1650
■1650年に成立した、中山世譜球陽と並ぶ琉球史の府編纂の正史とされる書物。
■琉球国の初めての正史とされる。
■全6巻。
■記述は和文体による。
■琉球国・第二尚氏統・10代目国尚質の摂政・羽地朝秀により編纂された。

鮫川大主 (さめかわうふぬし)

第一尚氏王統・初代王・尚思紹の父
[人物] [豪族]
■伊平屋島出身。
■父は伊平屋島の屋蔵大主
■伊平屋島の支配下にあった隣島・伊是名島に渡り島民を指揮して伊是名グスクを再建した。
■伊是名島から本島に移り、南山・大城按司の婿となり、佐敷按司となる。
■琉球朝第一尚氏統・初代・尚思紹の父。

屋蔵大主 (やぐらうふしゅ)

第一尚氏王統・初代王・尚思紹の祖父
[人物] [豪族]
■伊平屋島出身。
英祖統・初代英祖の五男という説もある。
■伊是名島を配下に収めていた伊平屋島で勢力を振るった豪族。
■琉球朝第一尚氏統・初代・尚思紹の祖父。
■琉球朝第一尚氏統・初代・尚思紹の父である長男の鮫川大主を始め4名の子がある。
■娘2人は地元・我喜屋部落のノロとなる。

尚泰王 (しょうたいおう)

第二尚氏王統・19代目王で第二尚氏王統最後の王。
[人物] [国王]
 生没年:1843-1901
■琉球国・第二尚氏統・18代目国尚育の二男。
■琉球国・第二尚氏統・19代目国であり最後の国となった。
■琉球国
■居城は首里城。
■在位:1848年~1872年。→琉球藩
■童名は思次良金。
■1848年、4歳で即位。
■1853年、ペリー来航。
■1854年、琉米修好条約締結。
■1855年、琉仏修好条約締結。
■1859年、琉蘭修好条約締結。
■1872年、国退位後、引き続き日本の華族(侯爵)として琉球藩となる。
■1879年、琉球処分により琉球藩に沖縄県が設置され、尚泰は藩としての地位を失い、琉球藩は消滅した。
■首里城退去も余儀なくされ、華族として東京に居を移すこととなった。
■1901年、尚泰は59歳でその生涯を終えた。
■墓陵は首里玉陵

尚育王

第二尚氏王統・18代目王
[人物] [国王]
 生没年:1813-1847
■琉球国・第二尚氏統・17代目国・尚?の長男。
■琉球国・第二尚氏統・18代目国
■琉球国
■居城は首里城。
■在位:1835年~1847年。
■童名は思徳金(うみとくがね)。
■士族の通える学校を作るなど教育に力を入れた。
■1844年、フランス海軍の来航にあたり宣教師の布教活動を許可。
■1846年、英国海軍が入港、宣教師ベッテルハイムが逗留した。
■墓陵は首里玉陵

尚灝王 (しょうこうおう)

第二尚氏王統・17代目王
[人物] [国王]
 生没年:1787-1834
■琉球国・第二尚氏統・14代目国尚穆の孫。尚穆の長男・尚哲の4男。
■琉球国・第二尚氏統・17代目国
■琉球国
■居城は首里城。
■在位:1804年~1834年。
■童名は思次良金(うみじらがね)。
■尚?時代に琉球の刑法典「新集科律」の編纂があった。
■墓陵は首里玉陵

尚成王 (しょうせいおう)

第二尚氏王統・16代目王
[人物] [国王]
 生没年:1803
■琉球国・第二尚氏統・15代目国尚温の長男。
■琉球国・第二尚氏統・16代目国
■琉球国
■居城は首里城。
■在位:1803年。
■童名は思徳金(うみとくがね)。
■わずか2歳で即位したが在位1年足らずで早世した。
■墓陵は首里玉陵

尚温王 (しょうおんおう)

第二尚氏王統・15代目王
[人物] [国王]
 生没年:1784-1802
■琉球国・第二尚氏統・14代目国尚穆の孫。尚穆の長男・尚哲の二男。
■琉球国・第二尚氏統・15代目国
■琉球国
■居城は首里城。
■在位:1795年~1802年。
■童名は思五郎金(うみごるうがね)。
■1798年、国学(現沖縄県立首里高等学校)、平等学校を開く。
■墓陵は首里玉陵

尚穆王 (しょうぼくおう)

第二尚氏王統・14代目王
[人物] [国王]
 生没年:1739-1794
■琉球国・第二尚氏統・13代目国尚敬の長男。
■琉球国・第二尚氏統・14代目国
■琉球国
■居城は首里城。
■在位:1752年~1794年。
■寝廟御殿を創建。
■尚穆の時代に「琉球科律」完成。
■「褒章制度」を整備した。
■墓陵は首里玉陵

尚敬王 (しょうけいおう)

第二尚氏王統・13代目王
[人物] [国王]
 生没年:1700-1752
■琉球国・第二尚氏統・12代目国尚益の長男。
■琉球国・第二尚氏統・13代目国
■琉球国中山→琉球国
■居城は首里城。
■在位:1713年~1752年。
■蔡温を三司官に取り立て数多くの改革を行った。
■教育文化振興に力を入れ琉球を文化大国へ導いた。
■近世の名君と謳われた人物。
■1712年、薩摩藩の許しを得て琉球国司から琉球国号に復した。
■墓陵は首里玉陵

尚益王 (しょうえきおう)

第二尚氏王統・12代目王
[人物] [国王]
 生没年:1678-1712
■琉球国・第二尚氏統・11代目国尚貞の孫で中城子・尚純の子。
■琉球国・第二尚氏統・12代目国
■琉球国中山
■居城は首里城。
■在位:1710年~1712年。

尚貞王 (しょうていおう)

第二尚氏王統・11代目王
[人物] [国王]
 生没年:1645-1709
■琉球国・第二尚氏統・10代目国尚質の長男。
■琉球国・第二尚氏統・11代目国
■琉球国中山
■居城は首里城。
■在位:1669年~1709年。
■尚貞の時代に蔡鐸(蔡温の父)が「中山世譜」を編集した。
■墓陵は首里玉陵

尚質王 (しょうしつおう)

第二尚氏王統・10代目王
[人物] [国王]
 生没年:1629-1668
■琉球国・第二尚氏統・8代目国尚豊の4男で、9代目国尚賢の弟。
■琉球国・第二尚氏統・10代目国
■琉球国中山
■居城は首里城。
■在位:1648年~1668年。
■童名は思徳金(うみとくがね)。
■「中山世鑑」を編集した羽地朝秀を摂政とし数多くの改革を行なった。
■墓陵は首里玉陵

尚賢王 (しょうけんおう)

第二尚氏王統・9代目王
[人物] [国王]
 生没年:1625-1647
■琉球国・第二尚氏統・8代目国尚豊の3男。
■琉球国・第二尚氏統・9代目国
■琉球国中山
■居城は首里城。
■在位:1641年~1647年。
■薩摩生まれ、17歳の時に即位した。
■「遠見番」を作り、烽火の制を定めた。
■黒糖、ウコンの専売制を始めた。
■墓陵は首里玉陵

尚豊王 (しょうほうおう)

第二尚氏王統・8代目王
[人物] [国王]
 生没年:1590-1640
■琉球国・第二尚氏統・5代目国尚元の第3子・大金武子朝公の4男。
■琉球国・第二尚氏統・8代目国
■琉球国
■居城は首里城。
■在位:1621年~1640年。
■童名は思五郎金。
■神号は天喜也末按司添(てにぎやすゑあんじおそい)。
■1636年、薩摩藩から琉球国号を剥奪され、琉球国司を名乗るようになる。
■墓陵は首里玉陵
■1623年、おもろさうし全22巻のうち、1、2巻を除く20巻が編纂された。

尚寧王 (しょうねいおう)

第二尚氏王統・7代目王
[人物] [国王]
 生没年:1564-1620
家分家・小禄御殿3世、尚懿・与那城子朝賢(第2代尚真の孫)の長男で、尚永の娘婿。
■琉球国・第二尚氏統・7代目国
■琉球国
■居城は首里城。
■在位:1589年~1620年。
■童名は思徳金。
■神号は日賀末按司添(てだがすえあんじおそい)。
■分家から国に就いたことから、尚寧一族を尚清の家系「首里尚家」と区別する為「浦添尚家」と称する文献もある。
■1609年、薩摩藩・島津氏の侵攻を受け降伏。以後、琉球は薩摩藩と明の二ヶ国に両属する事となる。
■尚寧は薩摩藩によって江戸に連行され、征夷大将軍の徳川秀忠に謁見、後に琉球に戻された。
■1613年、薩摩藩に奄美群島を割譲した。
■1613年、おもろさうし第2巻が編纂された。
■墓陵は浦添ようどれ

尚永王 (しょうえいおう)

第二尚氏王統・6代目王
[人物] [国王]
 生没年:1559-1588
■琉球国・第二尚氏統・5代目国尚元の第2子。
■琉球国・第二尚氏統・6代目国
■琉球国
■居城は首里城。
■在位:1573年~1588年。
■童名は阿応理屋恵(あおりやえ)子。
■神号は英祖仁耶添按司添(えぞにやすえあじおそい)、または日豊操
■1588年11月25日に30歳の若さで早世。継嗣はなかった。
■墓陵は首里玉陵

尚元王 (しょうげんおう)

第二尚氏王統・5代目王
[人物] [国王]
 生没年:1528-1572
■琉球国・第二尚氏統・4代目国尚清の第2子。
■琉球国・第二尚氏統・5代目国
■琉球国
■居城は首里城。
■在位:1556年~1572年。
■童名は金千代、または鶴千代。
■神号は日始按司添(てだはじめあんじおそい)。
■1555年、父・尚清の薨去に伴い兄弟の間で後継者争いが起きたが、父・尚清の定め通り位に即位。
■薩摩藩・島津貴久との良好な関係づくりに努めた。
■墓陵は首里玉陵

尚清王 (しょうせいおう)

第二尚氏王統・4代目王
[人物] [国王]
 生没年:1497-1555
■琉球国・第二尚氏統・3代目国尚真の第5子。
■琉球国・第二尚氏統・4代目国
■琉球国
■居城は首里城。
■在位:1527年~1555年。
■童名は真仁堯樽金。
■神号は天続之按司添(てにつぎのあんじおそい)。
■1537年、奄美大島・与湾大親による反乱を鎮圧。
■倭寇に対する圧力や防備も強化した。
■尚清の没後、子達の間で位継承争いが起こったが、尚清が生前に後継者と定めていた第2子の尚元が国に即位した。
■墓陵は首里玉陵
■1531年おもろさうしの第一巻の編集が行われた。

尚真王 (しょうしんおう)

第二尚氏王統・3代目王
[人物] [国王]
 生没年:1465-1527
■琉球国・第二尚氏統・初代国尚円の子。
■琉球国・第二尚氏統・3代目国
■琉球国
■居城は首里城。
■在位:1477年~1527年。
■童名は真加戸樽金(まかとたるかね)。
■神号は於義也嘉茂慧(おぎやかもい)。
■1500年、オヤケアカハチの乱を平定して八重山諸島を平定。
■1522年、与那国島を平定。
■地方の按司を首里に集居させ、中央集権化を図り権の強化をはかった。
■50年に渡る在位で琉球朝の基盤を充実させた。
■墓陵は首里玉陵

尚宣威王 (しょうせんいおう)

第二尚氏王統・2代目王
[人物] [国王]
 生没年:1430-1477
■父・尚稷、母・瑞雲。
■琉球国・第二尚氏統・初代国尚円の弟。
■1430年、伊是名島、諸見村生まれ。
■琉球国の第二尚氏統・2代目国
■琉球国
■居城は首里城。
■在位:1477年。
■神号は西之世主(にしのよのぬし)。
■(1441年)12歳、兄夫婦に連れられ首里に移動。
■(1453年)24歳、家来赤頭に昇格。
■(1463年)34歳、黄冠を賜る。
■(1469年)40歳、兄・尚円即位後は、越来(沖縄市付近)を領地とし越来子を称した。
■(1476年)47歳、尚円の薨去に当たり、尚円の世子・尚真が幼い事から群臣の推挙を受け即位したがわずか半年で退位した。
■退位後は越来に隠遁して生涯を終えた。

尚円王 (しょうえんおう)

第二尚氏王統・初代王
[人物] [国王]
 生没年:1415-1476
■父・尚稷、母・瑞雲。
■妃・世添大美御前加那志。
■幼名を思徳金(うみとくがね)といい、以降は金丸(かなまる)と名乗る。
■1415年、伊是名島、諸見村生まれ。
■琉球国・第二尚氏統・初代国
■琉球国(琉球国中山)。
■居城は首里城。
■在位:1469年~1476年。
■神号は金丸按司添末続之仁子(かなまるあじすえつぎのおうにし)。
■(1434年)20歳、両親を亡くす。
■(1438年)24歳、妻と弟を連れ国頭村に移動。
■(1441年)27歳、首里に移動。越来子(後の尚泰久)に見い出されその家臣となる。
■(1452年)38歳、最高位・黄冠を授かる。
■(1454年)40歳、尚泰久の即位を機に、西原間切の内間領主に任命される。
■(1459年)45歳、御物城御鎖側官(貿易長官)に就任。
■(1460年)46歳、長年寵愛を受けた尚泰久が薨去。尚徳即位。
■(1468年)54歳、尚徳との関係が上手くいかないまま内間村に隠遁。
■(1469年)55歳、4月尚徳が薨去。重臣会議による次期国推挙を受け尚円として位に即位した。
■即位に当たり「尚氏」を名乗った背景として、当時の琉球経済は明との朝貢貿易により成り立っており、統の継続を装う必要があったからと考えられる。
■第二尚氏時代に編纂された「中山世譜」「球陽」を見るにあたっても、第一尚氏一党に対する殺戮は行われている事から、統交代にあたっての粛清が行われたのは間違いないと考えられる。
■天寺・龍福寺・崇元寺を建立。
■朝貢貿易の進貢間隔を二年一貢と制定。
■墓陵は見上森陵~首里玉陵

尚徳王 (しょうとくおう)

第一尚氏王統・7代目王、琉球統一王朝・6代目王で第一尚氏王統最後の王。
[人物] [国王]
 生没年:1441-1469
■琉球国中山
■居城は首里城。
■在位:1460年~1469年。
■神号は八幡按司または世高
尚泰久の三男(側室・宮里阿護母志良礼の子)。
■1460年、父・尚泰久の死去により妾腹だが長兄・金橋子を退けて第一尚氏統・7代目に即位。
■マラッカとの交易を開始。
■1466年、自ら2000の兵を率いて喜界島へ遠征し領土を拡大。
■足利義政に使節団を派遣。
■朝鮮から方冊蔵経を贈られる。
■天界寺を創建。
■1469年、29歳で薨去。直後に金丸(後の尚円)がクーデターを起こし、第一尚氏統一族はことごとく殺害、追放され、第一尚氏統は滅亡した。
■なお、尚徳の崩御については、久高島で愛妾にうつつを抜かしているうちにクーデターが起き、漁師から金丸即位を聞き、憤って海に投身したとの説もある。
■第一尚氏統最後の国となった。

尚泰久王 (しょう たいきゅうおう)

第一尚氏王統・6代目王 琉球統一王朝・5代目王
[人物] [国王]
 生没年:1415-1460
■琉球国中山
■居城は首里城。
■在位:1453年~1460年。
■神号は那之志与茂伊(なのしよもい)、又は大世主(おほよのぬし)。
■尚巴志の五男であり、前尚金福の弟。
護佐丸の娘を妃とした。
■当初は越来間切を与えられて越来子と呼ばれていた。
■第一尚氏統・4代目尚思達の時、越来子時代に金丸(後の尚円)を見出し府官僚として推薦。
■1449年、兄である尚金福の死去により子兄弟による「志魯・布里の乱」が勃発、双方が共倒れになり、第一尚氏統・6代目に即位。
■銅銭・永楽通宝を元に大世通宝(たいせつうほう)を作成した。
■1458年頃、「万国津梁の鐘」を鋳造した。
■「護佐丸阿麻和利の乱」を鎮圧した。

尚金福王 (しょうきんぷくおう)

第一尚氏王統・5代目王 琉球統一王朝・4代目王
[人物] [国王]
 生没年:1398-1453
■琉球国中山
■居城は首里城。
■在位:1449年~1453年。
■在位期間:4年。
■神号は君志(きみし)。
尚巴志の子であり、尚忠の弟。前尚思達の叔父にあたる。
■1449年、甥である尚思達の死去により第一尚氏統・5代目に即位。
■「長虹堤(ちょうこうてい)」の建造…1451年、明からの冊封使を迎え入れるため、浮島と呼ばれる小港・那覇を貿易港として整備し、那覇市松山付近にあった伊辺嘉麻(いべがま)から崇元寺付近(那覇市泊)までの間に「長虹堤(ちょうこうてい)」と呼ばれる約1kmの堤防と橋からなる堤道を建設させ首里との道を繋いだ。
■当時の安里川、国場川流域は点在する小島の集まりであったが長虹堤の建造により、港・那覇の人口が増加するとともに埋め立てが進んだ。特に明治以降の埋め立てにより現在の形となった。
■尚金福の崩御に伴い、息子の志魯と弟の布里が位を争い「志魯・布里の乱」を引き起こした。

尚思達王 (しょう したつおう)

第一尚氏王統・4代目王 琉球統一王朝・3代目王
[人物] [国王]
 生没年:1408-1449
■琉球国中山
■居城は首里城。
■在位:1444年~1449年。
■在位期間:5年。
■神号は君日(きみてぃだ)。
■1444年、父尚忠の死去により第一尚氏統・4代目に即位。
■尚思達宝形の後、位は叔父・尚金福が継いだ。

尚忠王 (しょう ちゅうおう)

第一尚氏王統・3代目王 琉球統一王朝・2代目王
[人物] [国王]
 生没年:1391-1444
■琉球国中山
■居城は首里城。
■初代北山監守
■在位:1439年~1444年。
■在位期間:5年。
■1439年、父尚巴志の死去により第一尚氏統・3代目に即位。
■南方貿易にも力を入れたとされる。

尚巴志王 (しょう はしおう)

第一尚氏王統・2代目王 琉球統一王朝・初代王
[人物] [国王]
 生没年:1372-1439
■琉球国中山
■居城は首里城。
■琉球国の第一尚氏統・2代目
■琉球国最初の統一朝を成立させた。
■在位:1421年~1439年。
■神号は勢治高真物(せじたかまもの)。
■21歳で父の後を継ぎ南山の佐敷按司となる。
■1406年、父・尚思紹と共に中山武寧察度朝を攻略、首里に遷都、明の永楽帝に遣いを出し、父・尚思紹を中山に即位させる。
■1416年、父・尚思紹と共に北山攀安知怕尼芝朝を攻略、次男尚忠を北山監守として北部を管理下に収める。
■1421年、父・尚思紹の崩御により中山に即位。
■1429年、南山他魯毎の大里朝を攻略し三山を統一、第一尚氏統による琉球国最初の統一朝を成立させた。
■首里城を築き拡張整備した。
■那覇港の整備をし、中国、日本、朝鮮、南方諸国との交易を行なった。

尚思紹王 (しょう ししょうおう)

第一尚氏王統・初代王
[人物] [国王]
 生没年:1354-1421
■琉球国中山
■居城は佐敷城。
■琉球国の第一尚氏統・初代国
■在位:1406年~1421年。
■神号は君志真物(きみしまもの)。
■父は鮫川大主(さめかわうふぬし)、母は大城按司の娘、祖父は伊平屋島の屋蔵大主
■1406年、長男・尚巴志が中山武寧を滅ぼし、明の永楽帝に遣いを出して、父である思紹が中山となった。
その際、尚巴志は「父思紹は武寧の子である」と称して明に遣使している。
■1416年、長男・尚巴志と共に怕尼芝統(北山国)を平らげる。
■陵墓は「佐敷ようどれ」。航空自衛隊知念分屯基地管理地区(南城市佐敷)にあるゲートで「佐敷ようどれ」に行きたいと伝えれば通してもらえるようだ。

他魯毎 (たるみい)

大里王統(南山王国)・4代目王で大里王統最後の王。
[人物] [南山王]
 生没年:-1429
■琉球国南山
■在位:1413年~1429年。
■居城は島尻大里城。
■南山国最後の
■大里統・4代目汪応祖の長子。
■叔父・達勃期(たふち)に殺害された先汪応祖の仇をうち位を継承。
■1415年、明の冊封を受け山南に即位。
■1429年、尚巴志に滅ぼされ、山南国は滅亡した。

汪応祖 (おうおうそ)

大里王統(南山王国)・3代目王
[人物] [南山王]
 生没年:-1413
■琉球国南山
■在位:1403年~1413年。
■居城は島尻大里城。
■大里統・3代目汪英紫の次男。
■15世紀初めに豊見城(とみぐすく)を築いた。
■明の南京に留学した経験があり、明で見た龍舟を造って5月の始めに城下の江で競渡をしたのが爬竜(ハーリー)の始まりという説がある。
■1413年、弟の栄華を恨んだ実兄の達勃期(たふち)によって殺された。

汪英紫 (おうえいじ)

大里王統(南山王国)・2代目王
[人物] [南山王]
 生没年:-1402
■琉球国南山
■在位:1388年~1402年。
■居城は島尻大里城。
■大里統の2代目、先代の三男。
■先代の察度が複数代襲名した名前である可能性があり、先代・察度の叔父であったとの説もある。


承察度 (うふさと)

大里王統(南山王国)・初代王
[人物] [南山王]
 生没年:-1396 以降不明
■琉球国南山
■在位:1337年~1396年。
■居城は島尻大里城。
■1380年に初めて明へ進貢。
■1383、84、85年と続けて進貢し、1385年には明の皇帝より山南として鍍金の銀印を下賜されている。その後も、何度か明へ進貢した。
■親子数代で同じ名を襲名した可能性がある。
■中国、朝鮮に承察度(温沙道)と名乗る人物が朝鮮・晋陽に亡命した記録があり、叔父の汪英紫位を奪われ、朝鮮に亡命したとの説もある。

攀安知 (はんあんち)

怕尼芝王統(北山王国)・3代目王で怕尼芝王統最後の王。
[人物] [北山王]
 生没年:-1416
■琉球国北山
■在位:1401年~1416年。
■居城は今帰仁城。
怕尼芝統・2代目の長男。
■山北国・怕尼芝統最後の
■1416年、中山の思紹の子・巴志と戦い臣下の本部平原の裏切りもあり、居城の今帰仁城にて自刃、その生涯を終え、北山国は滅亡した。

珉 (みん)

怕尼芝王統(北山王国)・2代目王
[人物] [北山王]
 生没年:-1400
■琉球国北山
■在位:1393年~1400年。
■居城は今帰仁城。
怕尼芝統・初代怕尼芝の長男。
■実際にはではなく羽地按司と称していたと考えられる。

怕尼芝 (はにじ)

怕尼芝王統(北山王国)・初代王
[人物] [北山王]
 生没年:-1395
■琉球国北山
■在位:1322年~1395年。
■居城は今帰仁城。
英祖統・初代英祖の次男、湧川按司の孫という説がある。
■1383年1月、明の永楽帝が琉球諸国間の停戦の奉勅を下し、あわせて朝貢を命じた。これに応じて同年12月に進貢する。以後、1384年、1385年、1388年に2回、1390年の朝貢の記録がある。1385年には駝紐鍍金印を下賜されている。
■親子数代で同じ名を襲名した可能性がある。
■実際にはではなく羽地按司と称していたと考えられる。

武寧 (ぶねい)

察度王統(中山王国)・2代目王で察度王統最後の王。
[人物] [中山王]
 生没年:1356-1405 以降不明
■琉球国中山
■在位:1396年~1405年。
■居城は浦添城。
察度統・初代察度の子。
■神号は中之真物(なかのまもの)。
■明より中山に琉球で初めて冊封されたとされる。
 (父、察度が初めてとする説もある)
察度統最後の
■1405年、沖縄統一を目指す尚巴志・思紹親子が襲来、配下の裏切りもあり、居城・浦添城を下城し、中山国は滅亡した。
■実際にはではなく按司と称していたと考えられる。

察度 (さっと)

察度王統(中山王国)・初代王
[人物] [中山王]
 生没年:1321-1395
■琉球国中山
■在位:1350年~1395年。
■居城は浦添城。
■宜野湾出身。
■神号は大真物(うふまもの)。
■貧しい家の出身だが、勝連按司の娘と結婚し、30歳の時、浦添の英祖統を滅ぼし察度統を興した。
■明との交流を開始したで明より位に冊封された。
 (子、武寧が初めてとする説もある)
■実際にはではなく按司と称していたと考えられる。

西威 (せいい)

英祖王統・5代目王で英祖王統最後の王。
[人物] [中山王]
 生没年:1328-1349
■琉球国中山
■在位:1336年~1349年。
■居城は浦添城。
英祖統・4代目玉城の長男。
英祖統最後のとなった。
■実際にはではなく按司と称していたと考えられる。

玉城 (たまぐすく)

英祖王統・4代目王
[人物] [中山王]
 生没年:1296-1336
■琉球国中山
■在位:1313年~1336年。
■居城は浦添城。
英祖統・3代目英慈の三男。
■玉城の在位中に、英祖統が存在した中山の他に、南山・北山でも朝が成立した。
■弛緩した政治を行い、英祖統滅亡の一因とされる。
■実際にはではなく按司と称していたと考えられる。

英慈 (えいじ)

英祖王統・3代目王
[人物] [中山王]
 生没年:1268-1313
■琉球国中山
■在位:1308年~1313年。
■居城は浦添城。
英祖統・2代目大成の次男。
■弟は勝連城主、勝連。
■実際にはではなく按司と称していたと考えられる。

大成 (たいせい)

英祖王統・2代目王
[人物] [中山王]
 生没年:1247-1308
■琉球国中山
■在位:1300年~1308年
■居城は浦添城。
英祖統・初代英祖の長男。
■実際にはではなく按司と称していたと考えられる。

英祖 (えいそ)

英祖王統・初代王
[人物] [中山王]
 生没年:1229-1299
■琉球国中山
■在位:1260年~1299年。
■居城は浦添城。
舜天統の3代目義本から位を譲位され、英祖統・初代となる。
■父は浦添按司・伊祖城主であった恵祖世主。
■英祖在位中、南宋から僧禅鑑が来沖し仏教が伝来したとされている。
■浦添市にある「浦添ようどれ」は英祖の陵墓(極楽陵)である。
■実際にはではなく按司と称していたと考えられる。

義本 (ぎほん)

舜天王統・3代目王で舜天王統最後の王。
[人物] [中山王]
 生没年:1206-1259 以降不明
■琉球国中山
■在位:1249年~1259年
■居城は浦添城。
舜天統・2代目舜馬順煕の子。
■実際にはではなく按司と称していたと考えられる。
■その在位中、天災や疫病が発生した事の責任を取って、摂政職にあった英祖に譲位をした。これにより「舜天統」はわずか3代で終わりを告げる。

舜馬順煕 (しゅんばじゅんき)

舜天王統・2代目王
[人物] [中山王]
 生没年:1185-1248
■琉球国中山
■在位:1238年~1248年
■居城は浦添城。
舜天統・初代舜天の子。
■実際にはではなく按司と称していたと考えられる。

舜天 (しゅんてん)

舜天王統・初代王、初めての中山王(琉球国王)。
[人物] [中山王]
 生没年:1166-1237
■琉球国中山
■居城は浦添城。
■在位:1187年~1237年
■「中山世鑑」(1655年)や「中山世譜」(1701年)といった正史では、初代琉球国と位置づけられている。
■舜天の父は「中山世鑑」や「おもろさうし」、「鎮西琉球記」、「椿説弓張月」などでは、保元の乱で流罪となった源為朝(鎮西八郎為朝)で、母は大里按司の妹とされている。
■幼名を尊敦(そんとん)といった。
■15歳で浦添按司となる。
■22歳(1187年)の時、謀反を起こし中山に就いた利勇を討った功績により諸侯の推挙を受けて中山となった。
■歴史的資料としては国頌徳碑(石門之東之碑文)(1522年)や浦添城の前の碑文(1597年)にその名をみる事ができる。
■実際にはではなく按司と称していたと考えられる。

琉球・沖縄の歴史上の偉人や事柄辞典。